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その星空はほんものか?――「プラネタリウム」「ドリーム」を観て

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中高のころ、天文部に所属していた。

天文部といえば天体観測だろうと思われるかもしれない。実際、うちの学校にはかなり立派な天体ドームが存在しており、そのなかには京都の製作所から購入した(そして故障すると京都の製作所に出張修理を頼まないといけない)立派な天体望遠鏡があり、天体観測のできる環境はととのっていた。

しかし、トーキョーの空は狭くてほとんど星は見えず、また中高生が夜遅くまで勝手に残っているわけにはいかない。学校の天体ドームを使って夜の観測ができるのは、冬の一時期、学校に申請して行う「観測会」の日だけで、立派な天体望遠鏡はもっぱら昼間の太陽黒点の観測にだけ使われていた。

それでは天文部が普段何をしていたかというと、夏の流星群観測の準備と、秋の文化祭の展示準備、そしてプラネタリウムの練習だ。天文部の活動は放課後の理科室で行われていたが、理科室の横にこじんまりと存在する理科準備室の小部屋が部室代わりになっていて、そこに小さくて重い天球機と、10人程度が身を寄せ合って入ることのできる手作りの白いパラソルと、星座のイラストがプリントされたプラスチックのスライドと、手持ちの投影機が置いてあった。

ようするに、天球儀のスイッチをつけて星空をパラソルにつくりだし、その星空に、そのときそのときの解説にあわせながら、投影機を使って個々の星座をうつしだすというきわめてアナログなしくみである。部員はローテーションで小部屋に入ってパラソルのなかで身を寄せ合い、文化祭でのプラネタリウム上映に向けて、ナレーション担当とスライド担当それぞれの役割の両方をできるように練習し、当日は二人三脚でお客さんをもてなすのだ。15分程度のプログラムはきわめてオーソドックスなものだが、教わるのも口述伝承だし、当日もカンペなしだし(だって部屋が真っ暗だから…)、中学生にとっては結構大変な訓練だったと記憶している。プラネタリウムの練習とは別に、合宿に向けた「星座略号」の暗記テストというのもあり、とにかく真面目な子の多い部活だった。

長い間上の代から下の代へと継承されてきたプラネタリウムのパラソルは、すでに「白」というよりもうす〜い灰色に近く、明るい灯の下で見るとかなり貧相な感じだったが、ひとたび電気を消して投影機をつけると、そこは一瞬で小さな星空へと変わる。小さくて素朴なプラネタリウムのなかで、私はその一瞬の変化がいちばん好きだった。

さて、前置きが長くなったが、映画「プラネタリウム」と「ドリーム」である。この2つの映画は、まったく関係がないし、とくに関連して語るべき演出や演技があるわけではないのだが、偶然同じ週に鑑賞したことで、まとめて語るだけです。ネタバレ多少あるので気をつけてください。

プラネタリウム」は、簡単にまとめると、「降霊術ができるという謎めいた美人姉妹にメロメロになってしまったフランスの映画プロデューサーが、降霊術を映画にしようと七転八倒する」話である。

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http://planetarium-movie.com/

とにかくナタリー・ポートマンとリリー・ローズ=デップが風呂に入っているビジュアルが美しすぎて魂を抜かれそうになり、公開前から楽しみにしていたのだが……風呂に入っていたのがマジで3秒くらいだったのでびっくりしました(いや別に風呂のシーンだけを楽しみにしていたというわけではないのですが)。

そして、「謎めいた美人姉妹」の「謎」にドキドキさせられるのかと思いきや、映画はほとんど姉・ローラ(ナタリー・ポートマン)の視点ですすみ、むしろローラとケイトの人生が、彼女たちにメロメロになった映画プロデューサー・コルベンの暴走により、どんどん転がっていくという流れだったので、びっくりした。コルベンの暴走というのも、ローラとケイトが一方的にコルベンを翻弄するという話ではなく、ローラはコルベンを好きになっちゃうし、コルベンに進められるままに女優業をはじめちゃうし、しかしコルベンはケイトにお熱で(降霊術ができるのはケイトなのだ)、ローラが見ていないあいだにこっそりケイトと2人で降霊術をおこない、ローラが激しい嫉妬に陥ったりもするのである。結局いろいろあるが、「降霊術がウソかホントか」「姉妹はペテン師か」が厳密に解き明かされることはなく、物語は、女優業を続けるローラが、ニセモノの空を見上げてニセの愛のセリフをつぶやくことで幕を閉じる。

「映画」と「降霊術」という2つの「ニセモノ」のモチーフを軸に、いろいろな「ニセモノ」が出てくるという趣向自体はなんとなくわかるのだけど、すべてのモチーフがいまいち連関しきっておらず、この映画自体がたちの悪いチグハグを詰め合わせた「映画モドキ」のような仕上がりになっており、「う〜〜〜〜〜ん???」となるんだけど、ナタリー・ポートマンとリリー・デップの美しさはホンモノだし楽しめたからいいか……ああいうお洋服着たいな〜〜〜と、2人の着ていた衣装について調べているうちにモヤモヤも忘れてしまう……というような作品だった。

それに対して、映画「ドリーム」である。「彼女たちのアポロ計画」というサブタイトルが公開前から物議をかもした結果、「ドリーム」のみの邦題で公開された本作(原題「Hidden Figures」)は、ノンフィクション小説「Hidden Figures」を原作とし、映画でも冒頭で「実話にもとづく(based on a true story)」ことが大きくテロップされる。

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1950〜60年代のNASAで「コンピューター(計算係)」をしていた黒人女性たちが、自己の能力をまじめに真摯に発揮していくことで、周囲も「していないつもりだった差別」の存在を自覚し、彼女たちを登用し、ジョン・グレンによる有人宇宙飛行(マーキュリー計画)を成功させるという話だとあらかじめ聞いて鑑賞に臨んだのだが、まさにその通りの映画だった。

「ええっ!?」も「う〜〜〜〜〜ん???」もなく、純粋に彼女たちの健気さと明るい努力に泣き、エンドロールでうつしだされた実際のキャサリン、ドロシー、メアリーの姿とその後のキャリアを聞いて泣き、すがすがしい気持ちで劇場を出たのだが……「もっとこの人たちのことを知りたい」と思ってググってみてびっくりした。映画化にあたり、事実関係の重要な点でいくつかの脚色が加えられていることを知ったのだ。

たとえば、以下のとおり。

・映画では1961年のNASAを白人用施設と黒人用施設に分かれている状態として、キャサリンが黒人女性用トイレへの行き帰りに悪戦苦闘しながらマーキュリー計画に貢献するさまが描かれていたが、NASAでは1958年に施設の分離は撤廃されている。

・映画では、ドロシーがスーパーバイザーへの昇進を却下され続けていたところを、導入されたばかりのIBMメインフレーム機の取扱いを独学で習得することで能力を認められるというストーリーが描かれるが、実際のドロシーは1948年にはスーパーバイザーに昇進している。

私からすると、この2点は今回の映画におけるかなり重要なポイントであるように思ったので、「1961年の時点ではすでにそうではなかった」ということを知ってかなり「う〜〜〜ん???」と思ってしまった。

もちろん、「計算手」として扱われ「研究者」として認められなかったキャサリンの苦労や、ともに同じ仕事をしているのに「分離」させられているつらさ、差別していないつもりで差別している人たちの無思慮、といったことは、本当に存在していたことだと思うし、それを正面からきちんと描いている「Hidden Figures」の意義というのははかりしれないだろう。「実話にもとづく」からといってすべてが実話に忠実である必要がないし、映画として成り立たせるために脚色することが悪だとは思わない。「ダンケルク」も「ハクソー・リッジ」も「ハドソン川の奇跡」も、実話に基づいた脚色だらけの映画だったが、当然違和感はなかった。

しかし「ダンケルク」や「ハクソー・リッジ」、「ハドソン川の奇跡」といった作品と「ドリーム」が明らかに異なるのは、「ドリーム」のおもしろさが完全に「実話を描く」ことに依拠していることだ。そうした映画で、大きな前提が史実と違うときに、私は「そうだとしても、意義のある映画だし素晴らしいよ!」と純粋に評価していいのかがわからない。正直に言えば、「アポロ計画」というサブタイトルをつけることと、「1961年の時点では黒人用施設は存在してなかったけど、映画の構成上そういうことにする」のは、あんまり変わらないんじゃ……?とすら思った。サブタイトルの騒動があったからこそ、映画の構成に対しても少し残念な思いが強いのだ。

原作の時点でも、タイトルが「Hidden Figures(隠された人物)」であることに、それなりに批判があったようだ。というのも、NASAは彼女たち「計算手」の存在をこれまで隠してきたわけではなく、「ほかのNASA職員の多くの偉大な物語と同じように、(彼女たちの)物語も何年も語り続けていた」からだ。著者も「hidden」ではなく「unseen」が適切だったと認めているという。

「実話に基づくからって、フィクションはフィクションだってみんなわかってるよ」と言われてしまえばそれまでなのだが、「ドリーム」には「プラネタリウム」と違った意味での「ニセモノ」感があって(そこで描かれている「メイクアメリカグレートアゲイン」的なイデオロギーも含め)、それがちょっと残念だった。

フィクションで感動するのも、実話で感動するのも、どっちも「ほんとう」だと思うのだけれど、「フィクションまじりの実話」のフィクション部分で感動したときは、なんとなく「ニセモノ」な気がしてくるのはなぜなのだろう。

とりあえず原作の翻訳版を読んでみます。

 

参考:

https://newsphere.jp/culture/20170930-1/

https://www.smithsonianmag.com/history/forgotten-black-women-mathematicians-who-helped-win-wars-and-send-astronauts-space-180960393/

http://www.collectspace.com/news/news-010517a-hidden-figures-john-glenn-mystery.html