原美術館、東京都写真美術館、横浜美術館、京都国立近代美術館など、どんな展示がやってるかにかかわらず、定期的に足を運びたくなる美術館がいくつかあるんだけど、そのうちの一つが、東京都庭園美術館だ。
目黒駅から徒歩5分ほどの距離にあるこの美術館は、都内にはめずらしい広大な緑地である自然教育園に隣接していて、名前どおり広い庭園も持ち合わせている。
ちょっと都会の喧騒から離れたいなというときにとてもぴったりなロケーションなのです。
そして何より、建物じたいが最高。
パリに遊学してアール・デコ様式に魅せられたという朝香宮夫妻の邸宅をつかった旧館が本当に最高で、展示の内容いかんにかかわらず、とにかく訪れたくなってしまう。
もちろん展示のラインナップも素晴らしくて、行くたびに、美しくて静謐なものに出会わせてくれる。2017年の並河靖之七宝展はかなりよかったです。
というわけで、「そろそろ庭園美術館に行きたいな〜」と思ってるときに見かけたのが、こちらの展示の告知。
岡上淑子というアーティストのことも、コラージュのなんたるかもほとんどわかっていなかったけれど、メインビジュアルの静謐だけど不安になる美しさに惹かれて、展示初日に行ってまいりました。
結論からいうと、「美しいものとふしぎなものが好きで、なんとなくさみしさを感じてる人間はみんな見て」という感じ。
「切り貼りって、ちょっと練習したら自分もできるんじゃないかな」「いろんな雑誌からのコラージュということだけど、そんなの元の写真が美しいから美しいのでは」といった安直な考えは、コンマ1秒くらいですぐに吹き飛び、淑子がつむぐこの世ならざる世界にすっかり幻惑されてしまった。
淑子のコラージュのすごいところは、違う現実と違う現実をつなぎあわせて異界をつくりだしているところの違和感はあるけれど、紙と紙とをつなぎあわせているテクスチャとしての違和感は全然ないところ。画面はすみずみまでなめらかで、明らかにこの画面にいるべきではないものたち、明らかに上半身と下半身で断絶しているものたちなどがひしめきあっていても、では実際どこからどこに境界があるのか、みたいなものがわからないのである。テクスチャとテクスチャのなめらかさゆえに、絵ぜんたいが一瞬脳裏にすっと「こういうもの」として入ってきそうになるんだけど、「いやいやいや」ってなる感じが、きもちよくてこわい。「魅入られる」という言葉がふさわしい作品ばかりだった。
農林水産省の役人の娘に生まれ、戦中の東洋英和女学院での学びを経て、1950年、文化学院デザイン科に入学した淑子。「ちぎり絵」の課題の際に、女の頭だけが切り取られた紙片を見てインスピレーションを得て、そこからコラージュ制作に打ち込むようになったらしい。初期作品ではシンプルな色紙のうえに、人体が分解・接続されてはられているようなイメージが多かった。
彼女の才能が開花したきっかけは、シュールレアリスト・瀧口修造との出会い。淑子の作品に感銘を受けた修造はとにかく「つづけなさい」と話し、マックス・エルンストのコラージュ作品を淑子に見せて、彼女にシュールレアリスムの薫陶を与えていく。瀧口修造から淑子への手紙、本当に才能に心酔し、相手のためになるよう心を砕いているのが見えてよかった。あと文字がかわいかった(笑)。
この瀧口の手助けもあり、淑子は、コラージュを行う台紙にも、単色ではなく、複雑な背景が描かれたものを利用するようになり、結婚を機に制作を遠ざかる1956年まで、奥行きと幻惑性、そして意味のより多層化した作品を生み出していくようになる。
展示は旧館で展開される「第1部 マチネ」のあと、新館の「第2章 ソワレ」へと続いていく。「マチネ」では淑子自身の資質や、純粋な淑子らしさの見える優雅な作品を見せたあとで、「ソワレ」では時代への風刺が大きく取り入れられた作品――「予感」「戦士」「イブ」など、戦争から復興を過ごした淑子自身と、そこから高度経済成長期へと移行していく日本全体の経験がモチーフとして盛り込まれた作品がたっぷりと展示されている。
単純にすべてを時系列に並べるのではなく、アーティスト個人を知れる作品をじっくり見てから、彼女が時代にどうアプローチしたか、どう影響を受けたかが伝わる作品を見せてもらえたのが、初心者にもわかりやすくて、非常に良い構成だなと思った。ところどころに展示されていたディオールやバレンシアガのオートクチュールもむちゃくちゃ良かったです。
おもしろかったのは、風刺色の強い作品になるほど、むしろ女性は女性らしい顔と肉体を持つものとして、画面に存在するようになっていったこと。
メインビジュアルでも使われている「夜間訪問」のように、「マチネ」の作品には頭部がすげかえられた女性(のようなもの)が多数登場していた。そして彼女たちは、この世にまったく興味のなさそうな無貌(かお)をしていたのだけれど、「ソワレ」に出てくる女たち――顔がないもの、顔が別のものになっているものもいるが――は、明らかにこの世をまなざし、翻弄するような意図を見せていた。ヌードも多かったし。
そのかわりに顔をうしなっていったのは、男たちだ。文字通り顔をすげかえられている男も多かったし、上の「イブ」のように、固有性をうしなった者たちも多かった。
「マチネ」で展示されている「海のレダ」という作品には、こんな淑子の言葉が添えてあった。
「女の人は生れながらに順応性を与えられているといいますが、それでも何かに変っていく時にはやはり苦しみます。そういう女の人の苦悩をいいたかったのです。(『美術手帖』1953年3月号)」
「マチネ」の作品たちは、すでに作品としてできあがっている写真を切り貼りして再構成するという「自由」を楽しんでいるように見えて、どこか窮屈さを抱いている(あるいは窮屈さを表現するために自由を行使している)ようにも思ったのだけれど、「ソワレ」の作品たちにはそこを越えて軽やかに生きる意思のようなものが感じられて(時系列はかならずしもマチネ→ソワレではないのですが)、「沈黙」どころか「雄弁」なんじゃないかとすら思えて、私にはとても心地よかった。
本人が創作活動から遠ざかっていたのもあり、美術界からも忘れられていたという淑子が再評価されたのは、1996年以降のこと。もっとも盛んに活動していたころから40年って、すごい長い。でも、そこからは淑子の作品は頻繁に展示されるようになっていて、今回が6〜7回めくらいのよう。そして本人もご存命。91歳らしいです。すごいなあ。
わたしは大器晩成というか、歳とってから評価されたタイプの女性にすごく勇気をもらうので、なんかそういう点もうれしくなっちゃって、ミュージアムショップではいつも以上に大量のグッズ購入を行ってしまった。だって、ポストカードいっぱい売ってるし!
美しいものとふしぎなものが好きで、なんとなくさみしさを感じている方、ぜひ行ってみてください。