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セックスできないのは誰と誰か?ーー「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」(瀬戸夏子)メモ

予告された時から楽しみにしていた、「文藝」2021年春号掲載、瀬戸夏子「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」の感想をとりあえずメモ、模索段階でもいいのでまとめておこうと思って、ブログを開いた。

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本作は、主人公「わたし」の一人称で進み、主人公が文学サロンで出会った「ウェンディ」との、”戦争状態”を綴っていく形で進行する。

わたしたちはひとつの戦争状態に突入しはじめていた。それはなんらめずらしいものではなく、「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なものかを問う」、あの多数の亜流のひとつにたやすく合流する。


二人は、とある文学者の元愛人だとうたうマダムが主催する文学サロン界隈のパーティーで知り合い、一息に距離を詰める。「ウェンディ」は自分の本名を「わたし」に教えない。「わたし」が仮に呼んでいる名前が「ウェンディ」だ。バリの小説であり、ディズニーにアニメ映画化された児童文学『ピーター・パン』に出てくるあのウェンディ。ピーターパンに誘われてネヴァーランドへと旅立ち、ロスト・ボーイズたちを寝かしつける「みんなの母親」のウェンディである。本作は、バリの『ピーター・パン』の引用がふんだんに用いられ、そこに「わたし」のピーター・パン評、バリ評、ウェンディ評が添えられることで「ウェンディ」と「わたし」の関係もが肉付けされながら進行していく。

『ピーター・パン』だけでなく、本作には小説、日記、詩集、評論、作家のエピソード、あらゆる出典を持つ情報・テキストがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。『親密性』『日々の泡』から『川端康成三島由紀夫 往復書簡』『叶えられた祈り』まで。果たして読み手は、瀬戸夏子の小説を読んでいるのか、瀬戸夏子が引用している何かを読まされているのか、途中で混乱してくるくらいだ。その中には、瀬戸夏子が過去の文章などで言及し、好きであることを明言しているものも多い。「元ネタ」がこれだけ膨大にあり、ここまで明かしている作家というのも、珍しいような気がする(小説家としてではなく「歌人」のアイデンティティなのだろう、と考えると納得はする)


さらに言えば、瀬戸のアイデンティティ歌人であることに加え、瀬戸がボーイズラブ(商業ではなく「やおい」のほう)ーー無数のアマチュアの情念がパロディを集積し原作に書かれていない関係性を読み込んで「お約束」をがんじがらめに張り巡らせて発展してきた、異形のジャンルーーを長らく愛してきたとも、関係するかもしれない。そもそも、瀬戸夏子が書いているのは「一次創作」と言い切れるのだろうか?  形式的にはもちろん、この作品は「一次創作」であり、だから「文藝」に載っているだろう。しかし「ウェンディ」にしろ「わたし」にしろ、人となりの手がかりとなるのは、作中世界の現実のにおける彼女たちの行動ややりとりよりも、引用されたテキストと、そこに添えられた「わたし」の評のほうだ。語弊がないように言いたいけれど、「わたし」と「ウェンディ」はまるで、引用され評されている作品たちから生まれた二次創作キャラクターのようでもある。

「わたし」と「ウェンディ」には血肉があるし、彼女たちの”戦争状態”はーーそれこそインターネットでブログを書いたり、文学フリマで同人誌を売ったり、なんらかの創作物を他者と見せ合うコミュニティに所属している者にとっては特にーー肉から血飛沫が上がるような、凄惨なやりとりではある。それでも「わたし」と「ウェンディ」のキャラクターにはどこか浮遊感がある。それは、彼女たちが引用作品の二次創作キャラクターか、インターネットでブログを書いたり、文学フリマで同人誌を売ったり、なんらかの創作物を他者と見せ合うコミュニティに所属している者の「擬人化」であるからではないだろうか? 

無数の「わたし」と無数の「ウェンディ」がどこかで生まれ、死んでいる。「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なものかを問う」というが、その中には、セックスをした女たちもいるだろう。別に、作中の「わたし」と「ウェンディ」だって、セックスしてしまえばいいのでは?とすら思う。そこに障害があるとしたら、彼女たちのセクシュアリティの問題ではなく、彼女たちがそうしようと決めたからでしかない。しかし「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なものかを問う」なんていうのは、もうセックスしているのと一緒ではないだろうか? 彼女たちは「できない」のではなく表面的にはそれを「しない」だけだ。

手は出さない、わたしとウェンディはもちろん、わたしとピーターだってそうだ。手はださない。

「わたし」はこのように語っているが、この後、「わたし」はピーター(ゲイの友人)と関係したことが明かされる。

わたしはいつも疑問に思う、こういうタイプの人生を送った人間にたいして「結婚していたけれどほんとうは女/男が好きで」としたり顔で話すヘテロ男やヘテロ女のことを、時代背景もあるとはいえ、異性と結婚していた人もおおいのにそれを隠れ蓑にしていたというときの、隠れ蓑という根拠はどこにあるというのか。

ジャンルとしてのボーイズラブにおける男同士の恋愛は、それが強く制限される世界観を前提に「それを乗り越える」という形で描かれることが多い。本作の世界観、「わたし」の世界観において、少なくとも同性の肉体関係には「乗り越える」べきものはないように思う。では、この作品に、ジャンルとしてのボーイズラブの流儀を逆に導入するならば、引用文献の中で繰り返されているモチーフであり、黙示的に制限が置かれている者たちの間に流れているものを読み取るべきなのだと思う。それはつまり近親相姦であり、その二人とは、「ウェンディ」と彼女の兄であり、「わたし」と彼女の妹ではないかと感じられた。「ウェンディ」と「わたし」はほとんどセックスに近い精神的遊戯に興じ、彼女の兄とピーターには過去の肉体関係があり、彼女の兄と「わたし」の妹は交際の末心中する。関係性のミルフィーユの中で、「ウェンディ」と彼女の兄、「わたし」と彼女の妹の間だけがポッカリと空いている。

わたしはわたしの妹とウェンディの兄のセックスのことを考える。そこで消費されるコンドームのことを思う。その合間にピーターのはじめての性交渉、つまりピーターとピーターの兄とのあいだでおこなわれた乱暴な性交渉とのことを思い出す。

別に瀬戸夏子は近親相姦に「萌え」ているわけではなく、本人にとって重要なテーマだと思っているわけでもないとは思う。ただ、あらゆる関係性が織り重ねられ結びつけられ誰と誰の間にも縦横無尽に矢印を走らせることを彼女は楽しんでいて、ラベルがべたべたに貼り巡らされている渦中においては、それらはかえって全て滑稽で、つまりそのどれかに読み手が肩入れすることも滑稽になってしまう。そんなときに読み手は、もはや行間を読み込みまくって皮肉にも、セックスの矢印が書き込まれなかった近親相姦に「萌える」しかないような境地になる、というのがしっくり来るかもしれない。