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飲みすぎないように文章を書く

2021年に観た映画ーーあるいは、「有害な男らしさ」の描き方のこと

年の暮れに、その年観た映画を振り返っています。

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初めてから四年経っている。月日の流れは早い……。
劇場で観た映画のみを数えているのですが、2018年は37本、2019年は43本、2020年は60本という結果でした。時間もあったのだろうし、コロナ禍で映画館が閉まる閉まらないと行政に振り回されているのに対して、意地になって映画館に通っていたのだと思う。

で、今年ですが、39本でした。

 

新感染半島 ファイナル・ステージ

Swallow スワロウ

チャンシルさんには福が多いね

NTL リーマン・トリロジー

KCIA 南山の部長たち

分断の歴史 朝鮮半島100年の記憶

クローゼット

アメリカン・サイコ

本気のしるし〈劇場版〉

花束みたいな恋をした

すばらしき世界

藁にもすがる獣たち

あのこは貴族

野球少女

ミナリ

ノマドランド
PASSION

狼をさがして

アンモナイトの目覚め

戦場のメリークリスマス 4K修復版

ハイゼ家 百年

ファーザー

ライトハウス

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

プロミシング・ヤング・ウーマン

少年の君

返校 言葉が消えた日

ベイビーわるきゅーれ

ドライブ・マイ・カー

君は永遠にそいつらより若い

※以下はイギリスで観賞
007 NO TIME TO DIE
DUNE
LAST NIGHT IN SOHO
ALONERS
AFTER #ME TOO
THE RAID
THE RAID 2
Spencer
HOUSE OF GUCCI

 

2020年に比べてかなり減ってるな〜と考えた時に、いくつかの要因に思い至りました。

 

まずは単純に、プライベートの事情。夏あたり留学、引越し、退職などでバタバタしていたのでどうしても少ないな。イギリスに来てからは結構観れている気がする。実のところ、このあと、The Matrix Resurrections、LAMB、TITANEを予約してあるのでもう少し増えるかもしれない。街がロックダウンにならなければ……。

それと、iPad miniで動画を観ることにようやく慣れたので、家で旧作を観ていたのもある。久しぶりにじっくり見返した「お嬢さん」は、今年のベスト!と言いたくなるくらい素晴らしかった……。それでも私は劇場という空間がとても好きなので、劇場で観た映画鑑賞は、やはり配信の鑑賞とは区別して記録しておきたいなとは思っている(旧作でも、劇場でかかったものを観たら上記リストに記録しているのも、そういう趣旨も含むため)。ちなみにNetflixオリジナルなどでも、できれば劇場公開で観たい派で、しかし気がつくと公開が終了しており、配信で観るならいつでもいいかとだらだらしているうちにそのまま忘れている作品がたくさんある気がする。

あとは、昨年に比べて小説を読んでいた、というのもありそう……。可処分時間は有限……。

 

そんなわけで大した分母ではないものの、ひとつ、もっとみんな観てくれ〜〜今からでも観てくれ〜〜!と叫んでおきたいのが、

 

KCIA 南山の部長たち

 

です。

 

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1979年の朴正煕(パク・キョンヒ)暗殺事件とその犯人である当時のKCIA部長・金載圭(キム・ジェギュ)を題材にしたノワール映画で、韓国の政治を知る上でも非常に素晴らしい映画なのですが、それと同時に、「いや、これ実話とかじゃなくて、『駆け込み訴え』の翻案ですよね?」と言いたくなる作品です。だって、イ・ビョンホン演じるユダ=キムが、いかにイエス=パクに忠実に仕え、心を尽くし、手を汚してきたかということが、執拗に描かれ続ける114分なんですよ……。大統領直属の諜報機関をまかされ、アメリカからは「次の大統領候補」とまで目されていた男が、みんなが呼ばれている宴会に呼ばれなかったくらいでそんな顔する!?!!?みたいなシーンが盛り沢山。そして、その「呼ばなかった」方も、呼ばなかったことに、実際非常に重い意味を持たせていて、この「呼ばなかった」「呼ばれなかった」「呼ばれた」みたいな小さなことが、どのようにキムの中の衝動を育てて、ホモソーシャルを瓦解させ、血で血を洗う内部抗争と、超長期続いた独裁体制の崩壊をもたらしたか、というのが作品の核となっています。

画面からは終始湿り気のある情念が漂ってくるけれど、カメラはそれを美しい悲劇として映し出しているわけではありません。どこにでもあるホモソーシャル/ボーイズクラブのいざこざが、国家最高権力下でも行われていた、という、そういうしょうもなさを、乾いた喜劇としてうつしとっている。本人にとっては悲劇、しかし引いて見ればどこまでも喜劇、である状況に全身全霊で苦悩しているキム=イ・ビョンホンのことを愚かでセクシーな存在として完璧に撮影したウ・ミンホ監督、本当に信頼できる監督だと思いました。自分も含めた、家父長制的男社会に対しての眼差しの容赦なさ、でもそういうものって細心の手際と最高の役者で映像にするとたまらなくセクシーにもなりうることに自覚的であるところ、全てがすごいなと思いました。前作「インサイダーズ」でも、汚職政治家たちが、女を侍らせた宴会で、全裸で下半身を使って「ゴルフ」をするシーンがあって、これを大真面目に撮るの…すごすぎる…と思ったのですが、それ以上の醜悪と滑稽を見せてくれて最高でした。

このスチール好きすぎる。どこまでも矮小な「最後の晩餐」。

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こうやってKCIAのことを書いた時に、この1〜2年、toxic masculinity(有害な男らしさ)という言葉が日本でも注目されているなと思い出しました。あちこちで議論を見かけましたし、映画では、フェミニズムを題材にする作品が増える中で、合わせてそちらにも向き合っている作品が増えた印象があります。上であげた中だと、「プロミシング・ヤング・ウーマン」は、フェミニズムの話であるとともに、クラブのお持ち帰りナンパ会社員や、レイプ加害者の元医大生たちの有害な男らしさの描写に力が入れられた作品でした。逆に、「野球少女」は、野球×フェミニズムというテーマを扱いながらも、従来のジェンダー役割に馴染めない男性キャラクターたちを配置して、(本来この題材だったらイメージしそうな)男社会の構成員による現場ベースでのセクハラ・パワハラは一切描かないことで、この作品が追求したいテーマ=能力を理由にしたジェンダー差別にどう向き合うべきか、に集中していたのが面白かったです。あと、そうだ、「ライトハウス」は、フェミニズムは関係ないのですが、もう「有害」を通り越して「醜悪な男らしさ」の話だった。男二人が嵐の灯台に閉じ込められて主導権を奪い合い、アルコールと嵐の幻覚でカタストロフィを迎える話なのですが、灯台(=男根)に、男が二人だけ閉じ込められたら最悪なことになるに決まっていると、監督も言っていました。

 

……とあれこれ振り返るなかで、どうしてああなったのかなあと考えてしまうのが、エドガー・ライト監督の「ラスト・ナイト・イン・ソーホー」です。現代の女子大生エロイーズが、1960年代の駆け出しの歌姫サンディの夢を見るうちに、彼女が巻き込まれる恐ろしい惨劇に自分の現実も侵食されていく……というタイムスリップホラー。映像も、俳優の演技も、セットもコスチュームもソーホーの街も素晴らしく、私はエロイーズとサンディのシスターフッド物としては非常に胸熱く鑑賞しました。しかし、サンディを追い詰め、結果的に物語の黒幕としてしまう大元の原因である「有害な男らしさ」とそれに囚われた男たちの描き方が、どうしても納得いかないんですよね。陳腐なのですが、それがKCIAのような、コントロールし尽くされた陳腐さというよりも、製作側が、「有害な男らしさ」と向き合うことについてどこか腰が引けている、負い目を感じている、どうしても甘えがあるのでおちゃらけてしまう、そういう陳腐さだと感じました。これはTwitterである方が指摘されていましたが、オマージュにオマージュを重ねる中で「男の眼差し」が映画全体に通底してしまっているから、というのもあると思います。自分たちが過去の女性搾取的な映画を楽しんできたその眼差し含めて冷徹に反転し直す覚悟が半端なので、サンディの苦しみも、陳腐なもの、偽りのもの、観客を楽しませるもの、に終始してしまっているように感じました。「ラスト・ナイト・イン・ソーホー」、好きな映画だからこそ、そこがどうしても残念で、ずっと考えています。

個人的な雑感として、「有害な男らしさ」を真摯に描くには、やはり、その「有害な男らしさ」に踊らされている男性のことを、幽霊とか亡霊とかゾンビみたいな、総体的で現象的なものとしてではなく、個体として、しっかり描く必要があるんだと思います。名前を持っているのに忘れられてきた、個人の人生を見過ごされてきた女たちが、自分の名前を思い出して世界に刻み直し、人生を取り戻す様を見せることで観客たちの人生をエンパワメントするのがフェミニズム映画の大きな試みだとしたら、「有害な男らしさ」を暴く映画においても同じだけの属人性が求められると思っています。つまり、幽霊や亡霊やゾンビみたいなもの、あるいはわかりやすく悪人みたいなキャラクターに「有害な男らしさ」を背負わせてしまったら、その存在が自分たち(男女ともに)の心身にも染み付いている「有害な男らしさ」に対して機能することはないように思う。「ひどい時代もあったんだね」みたいになっちゃうじゃないですか。個人の責任じゃなくて、社会とかシステムとかそういうのによって担わされるのが「有害な男らしさ」です。だからこそ、その社会とかシステムとかそういうものによって「有害な男らしさ」を抱えてしまう、その個人の「人間」の部分が多少なりとも描かれていないと、フィクションにおける「有害な男らしさ」は要素としてうまく機能しないのではないかと思いました。そして、「有害な男らしさ」がきちんと描写されていれば、その描写というのは、男性にとっても「一方的に断罪されているように感じる」ものではないはずだろうと思っています。なぜならば、「有害な男らしさ」を担わされている個人というのも、また社会の犠牲者な訳なので。その点で「ラスト・ナイト・イン・ソーホー」には「ごめんなさい、男でごめんなさい、過去のやばい男たちの代わりに謝っておきます」的な、「問題の本質がわかっていないし自分が悪いと思っていないがとりあえず謝っておく感じ」が見受けられなくもないのでした。

「プロミシング・ヤング・ウーマン」はそれでも、男性にとっては厳しすぎる、男性全員が断罪されている気がして怖い、とも取れるかもしれませんが、あの映画の場合、非常に多くの、いろいろな度合いで「有害な男らしさ」を持つ男性を登場させることで、矛を向ける範囲が大雑把にならないように心を配っていると思います。「有害な男らしさ」を男性のみの問題とせず、加担する女性をしっかり描いている点にもそれが見受けられました。

また逆の意味で面白いのが、「Swallow スワロウ」でした。妊娠を機に、異物を飲み込み(swallow)続けるようになる妊婦が主人公なのですが、彼女がそこから立ち直っていく過程で関わるのが、境遇をわかちあえる同性でもフレンドリーで人当たりの良い異性でもなく、彼女を監視するために家族(上流白人家庭)が雇った、シリア出身の中年男性看護師と、彼女の母親をレイプして彼女が生まれる原因となった父親(刑期満了)なんですよね。「男らしさ」側の人間のほうと対話することで、家庭で「女」を担わされている自分と和解していくという。今考えてもすごいバランスの映画なのですが、今年のフェミニズム映画のなかでは相当な傑作だったと思います。先端恐怖症とかじゃなければ、おすすめです。

あ、あと「有害な男らしさ」にフォーカスし「男が謝り倒す」オチを取っているのに不快じゃなかったのが韓国映画「クローゼット」です。「お嬢さん」でも徹底的に「コケにされる男性性」としての役割(藤原伯爵役)をまっとうしたハ・ジョンウが、主人公です。彼が仕事に没頭しているうちに、娘が神隠しに遭ってしまう話なのですが、過去ネグレクトや虐待を受けてきた子供たちの怨念に謝り倒して、娘を異界から連れ帰ります。あれはそうか、「男」→「女」ではなく、「政治や経済の皺寄せを子供に担わせてきた大人」からの謝罪だったのと、謝るに至るまでの主人公の背景がしっかりと描かれていたのはありそうです。「クローゼット」がもう一つ面白かったのは、特に霊能力などがないハ・ジョンウがどうにか異界に入るため、波長(?)を合わせようとして、メンタルクリニックでもらっている精神安定剤を飲みまくる、という描写でした。メンタルイルネスを受け入れる、というのも、一種の男らしさからの解放だなと。

 

……とあれこれ書きましたが、本当はこのテーマで一年を振り返るなら「パワーオブザドッグ」と「最後の決闘裁判」も観ておくとよかったな……。年末にゴロゴロしながらiPadで観ようかなと思います。皆さんも良いお年を!