It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

言葉がたとえ無力でもーー映画「Mishima:A Life in Four Chapters」

 

1 高校の記憶

この章は自分語りに終始する。コンテンツの感想だけ知りたい人は2まで飛んでも問題ない。

 

市ヶ谷の中高一貫校に通っていた。

周辺は、南西から北東へと長く伸びる総武線の線路により二つに隔てられており、我々の学校は、線路よりも南側のエリア、番町とよばれる地域に属していた。当時は日本テレビの本社が至近に位置していたため、たまに芸能人を目撃することもあった。

学校帰りの寄り道は原則禁止されていた。教師たちは大して監視の目を光らせていなかったものの、体育会系の部活では先輩が後輩の寄り道を厳しくとがめる文化があった。そもそも市ヶ谷には中高生が遊ぶような場所はなかったので、放課後は麹町駅から半蔵門線で渋谷に出て、センター街の歌広場でソフトクリームをむさぼりながらアニソンを歌うのが日常のルーティンだった。

そんなわけで、総武線の北側は大半の生徒にとって、ほぼ無縁な、ふだん意識に上らない場所なのだったが、たまに存在感を増すことがあった。バラバラバラッという轟音が降り注ぐ瞬間だ。防衛省市ヶ谷駐屯地に向かうヘリコプターである。私は小学校に上がるまで埼玉県和光市で育ち、幼稚園には自衛隊一家の子供たちが数多く通っており、入間の航空祭などにも親に連れて行かれていた。そのため自衛隊じたいを特に珍しいものだとは思っておらず、こんな市街地にもあるものなのだなあ、というくらいの感想をいだいていた。

三島事件ーー1970年11月25日に当時国際的名声を持つ作家であった三島由紀夫が私設組織「楯の会」メンバーとともに市ヶ谷駐屯地に乗りこみ、自衛隊への決起を呼びかけるも不発に終わり、割腹自殺した事件ーーのことを知ったのが、正確にいつだったかは覚えていない。中学生のときに『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『サド公爵夫人・わが友ヒットラー』『近代能楽集』『豊穣の海』などを立て続けに読んだ記憶はあるから、けっこう好きな作家ではあったはずだ。エッセイを読むほどではなかった。また、『豊穣の海』には非常にはまったのを覚えているが、それ以外に後期の作品を読んだ記憶はうすい。三島事件のことはおそらく『豊穣の海』を読んだ際に知識としては目にして、多少驚いて、それ止まりだったように思う。

彼のことをよく考えるようになったのは、高校で地理を担当していた才津先生から三島事件のことを聞いてからだった。

才津先生は、私の学校に通っていた2000年代なかばの時点で、相当高齢の、おそらく当時もっとも長く在籍している教師だった。愛称は「才津ちゃん」。高齢ならではの滑舌なのか、長崎県五島列島の方言のまろやかさゆえなのか、しょうじき授業を聞き取るのには相当苦労した。それでもゆったりした雰囲気と人柄の良さにより、「かわいいキャラ」として愛されている先生だった。私は母校への忠誠心がかけらもない女のため同窓会に一度も出席したことがなく、才津先生が今も存命なのかは知らない。元気だといいなと思う。

さて、日本史の教師ではない才津先生がどうして三島事件に関係あるかといえば、ようは彼は、当日教壇に立っていたのだった。なぜその話になったのかは覚えていない。その日が、11月25日だったのかもしれない。先生の口調は普段どおりふんにゃりしていて、あまり長々と話した記憶はない。そもそも先生は駐屯地の様子を目の当たりにしたものでもない。ただ、私たちが時折耳にするものとは比べものにならない数と音量のヘリコプターの音がバリバリバリと鳴り渡り、ただならない事態が起きているのだと認識した、と彼が語った瞬間、私のなかで三島由紀夫三島事件は一気に、生々しい手触りのあるものになったのは覚えている。過去に、小説のあとがきを読んで「作者」というものがいると知ったという話を誰かが書いているのを読んだ記憶があるのだが、私が、「作家」というものが実在していると知ったのは、きっとこのときだったのだろう。

その後全著作をむさぼり読む……というような熱心な三島読者にはならなかったのが私のいい加減で怠惰なところなのだが、進学先を選んだのは三島の影響が5パーセントくらいあったと思う。受験生のときに五月祭を見学に行ったら「弱法師」を上演していたのにも、なんとなく運命的なものを感じた。と言っても、別に演劇サークルに入ったわけではないのも私のいい加減で怠惰なところである。

入学後は、書評サークルに入って、BL小説の書評ばかりしていた。そのサークル合宿で山中湖に行った際にどうしても三島由紀夫文学館に行きたくなり、朝、一人で集団を抜けて来館し、帰りのバスに乗り遅れかけた。駆け足で鑑賞したなかで、彼が小学校4年生の頃に書いたという生原稿の筆跡のことだけは今も覚えている。流麗で細面、しかし神経質なその文字たちのたたずまいに、三島由紀夫、いや平岡公威という人間の危うげな均衡のすべてが込められているように思った。

2 没後50年、そして「Mishima:A Life in Four Chapters」

このようにして、人間・三島由紀夫への興味がぼんやり根付いたまま歳をとり、三島事件50周年を迎えた。ドキュメンタリー「三島由紀夫VS東大全共闘」は大変素晴らしくて、二度観た。

zerokkuma.hatenablog.com

同年、演劇界では、三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」が行われていた。4人の演出家がそれぞれ「真夏の死」「橋づくし」「班女」「憂国」を再解釈するという趣向で、私はSNSで話題になっていた「憂国」の翻案、「(死なない)憂国」をオンラインで観た。東出昌大と菅原小春の二人芝居ということで期待していたのだが、私には合わなかった。二・二六事件に誘われなかった中尉の懊悩と、コロナ禍で緊急事態宣言にもかかわらず新宿ロフトにたてこもったライブ仲間を検挙に行く警察官の苦悩を重ねるというのは、さすがに軽すぎやしないかと腹さえたった。大義がゆらいだ時代の人生の困難さと、大義がからっぽの時代の人生の困難さの対比がうまくいってないと思ったのかもしれない。自分がエンターテイメントに思い入れを持っているからこそ、しかしその重みを、過大評価しすぎだろうと思ったのもある。

……とまたしても前置きが長くなったところで、「Mishima:A Life in Four Chapters」である。

日本では未公開、円盤もないという作品のため、知っている人はかなり少ないかもしれない。私よりよほど熱心な三島読者で全集をそろえている友人も知らなかった。ただ、2020年秋から2021年春に東京都現代美術館で行われていたアートディレクター・デザイナーである石岡瑛子の回顧展(「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」)に行った人は、タイトルを覚えているかもしれない。本作では石岡瑛子アートディレクションを務めており、作中で使われていた、まっぷたつに割れる金閣寺のどでかいレプリカが、この展覧会で展示されていた。

山形浩生さんが、まさに石岡瑛子展きっかけでDVDを観たことを書いてますね。

cruel.hatenablog.com

 

私の場合、3年ほど前に人から「この映画は観た方がいい」と勧められたのがきっかけで知った。しかし先にも書いたように、劇場上映がなく、また北米リージョンDVDは視聴環境がかなり限られるので、正直鑑賞を諦めて、ほとんど忘れていた。

それがなぜか今週やっていたのだ。ロンドンが誇るカルト映画の聖地、Prince Charles Cinemaで……。前回のブログでも書いたが、4月は社会的要因、大学院のあれこれ、個人のメンタル的要因がかさなって、まったく映画が観られなくなっていた。5月もあんまり映画を観る気分ではなかったのだが、帰国初日、映画好きの友人たちとパブで飲んでいるときにPrince Charles Cinemaのラインナップを確認する流れになり、本作の上映を見つけてしまったのだった。迷ったがチケットをとり、どうにか劇場に足を運ぶことができた。満席だった。

 

物語はタイトルのとおり4章に分かれている。

  1. Beauty
  2. Art
  3. Action
  4. Harmony of Pen and Sword

ストーリーの外枠となるのは、1970年11月25日、三島たちが市ヶ谷駐屯地に乗り込む日である。その合間に三島が成長し、世界的作家になっていく過程の回想と、3つの作中作が挟まる。1 Beautyでは「金閣寺」、2 Artでは「鏡子の家」、3 Actionでは「奔馬」が演じられる。三島由紀夫を演じているのが緒方拳なのも相当力の入ったキャスティングなのだが、「金閣寺」では柏木を佐藤浩市が、「鏡子の家」では収を沢田研二が演じており、彼らの存在感が素晴らしかった。山形氏は上記のブログで「全部見せないと気が済まない」石岡瑛子の気質を批判し、映画としてはうまくいっていないと言っている。その通りだなと思う面もあるが、その広告グラフィック的キッチュさが、作中作の外側、つまり三島にとっての現実を空虚で色のない、歯痒いものにしていることを、私は効果的に感じた。

 


こうした石岡瑛子のクリエイティブや、制作総指揮ジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラという錚々たるクレジットを見ると、「スターウォーズ」「ゴッドファーザー」のような娯楽大作映画に感じられるかもしれない(いや、感じないかな……)。

しかし観てみての感想としては、どこまでも個人的な、三島由紀夫を描こうとした映画に感じられた。ドキュメンタリー「三島由紀夫VS東大全共闘」は、社会にひらかれた、社会と接続しようとあがいていた三島を見せようとしていた。実際の三島の人生にはそういうところもあっただろう。しかし本作はあくまで三島由紀夫個人の葛藤にフォーカスしていた。発される言葉も、三島のモノローグか、作中作のセリフがほとんどである。

そのためか私には、当時の日本社会そのものの問題などにあまり立ち入らずに描かれた、非常にプライベートな映画であるように感じたのだった。

三島事件はたしかに、近代史上まれにみる異常な出来事だっただろう。しかし、どんなに社会的事件に思える出来事であっても、それらはすべて、個人の内面と世界の摩擦から起きるものである(と私は認識している)。三島事件もまた、そのパフォーマンス的はなばなしさ、楯の会のメンバーたちとのホモソーシャルホモセクシュアル的紐帯とは反対に、最後まで、個人的な叫びであり抵抗だったのだろうと思う。どんなに大量のキャスト、大量の登場人物が出てきても、これは平岡公威個人の「こじらせ」についての話だ。生への執着をこじらせ、美への憧れをこじらせ、老いへのおそれをこじらせ、言葉の不通をこじらせ、行動を試行錯誤して、でも結局言葉の無力さに打ちのめされて、打ちのめされながらも負け切りたくない、という意地が彼の切腹だったように、「Mishima:A Life in Four Chapters」からは思った。

殉じられるものがなくなってしまった世界や、今生きている自分と死ねなかった自分の矛盾というよりも、ただただ目の前の他者との、言葉を通じたわかりあえなさこそが、三島を死にかりたてたように感じた。国が変わらなくても、自衛隊が決起しなくても、その中の誰かひとりでも「聞く」ことさえすれば、三島は死ななくて済んだのではないだろうか? インターネットでは醜悪なミームと化している「おまえら、聞けぇ! ... 男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ」がもはや自衛隊員たちの野次にかきけされ、本作では演説のその部分に至ってはもう英語字幕がついていなかったことが、私にとっては印象的だった。とはいえ、彼の葛藤を「わかりあえなさ」に普遍化・矮小化してしまうことは、私が腹をたてた「(死なない)憂国」と同じ無神経さを持っている可能性もある。

もしかしたら私のこの解釈には、「新潮」2020年12月号に掲載された、舞城王太郎「檄」が大きく影響しているかもしれない。特集「三島由紀夫・没後五十年」にあわせたトリビュート作品で、主人公の9歳の姪が、ある日を境に三島の檄文の暗唱を止めなくなってしまうというものである。これはまさに「聞いて、受け止める(受け入れるのではなく)」ことの話だと思った。人に貸したままなのだが、もう捨てられている気がする……。もう一度読みたいので、単行本に収録されてほしい一作だ。