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It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

わたしがサークルをクラッシュしたかった(けどできなかった)頃

タイトルに「サークル」と入れてしまったが、わたしが大学時代に何に入っていたかというと、テニサーでもインカレでもオールラウンドでもなく、学生新聞団体だった。

うちの大学はそれなりに由緒がある大学で、うちの学生新聞もそれなりに由緒のある学生新聞だ。もともとは「帝国大学新聞」として1920年に創刊され、その名前や母体を変えつつも、1946年に財団法人化され、さらに現在は公益財団法人となってその発行をつづけている。リクルート創業者の江副浩正さんや映画監督の想田和弘さんなど、名の知られているOBも多いし、出版・マスコミ業界に来てからもちらほらOBに会った。

発行ペースは週1回で代金は1部200円程度だが、収入源のほとんどは在校生や受験生、その他各地の進学校による「年間定期購読」によりささえられている。

また、これはまさに江副さんが在籍時に開始されたことらしいのだが、一般企業に対しての広告営業、掲載も行っており、そうしたビジネス面や金銭の管理、DTPを行ってくれる社会人の方も数人在籍していた。年間定期購読、広告ビジネス、社会人のみなさんのお給料は、すべて、一定のクオリティでの週1回の確実な新聞発行が行われる前提のうえに成り立っている。そのため、在籍する学生たちにとって取材・編集は「サークル活動」であると同時に「義務」でもあった。

在籍人数が多ければ、その義務はあくまで「サークル活動」の範囲内で楽しめるもののになるはずだったが……事件は2008年に起きた。20人が「定着」(弊新聞団体では新歓期のあとも残ることをこう呼んでいた)した2007年度とうってかわって、2008年に定着した新入生が4人しかいなかったのだ。で、その一人がわたしでした。

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そもそもなぜ自分が学生新聞などというなんか堅そうで真面目そうなものに入ったかというと、別にものを書きたかったからではなく、「お金がもらえる」からだった。当時家庭は経済的困窮の可能性をつねに秘めており、わたしは別に親に言われたわけではないものの勝手にお金の心配ばかりしていた。大学も「一番コスパがよさそう&合格したらそれで稼げそう」という理由で選んだし、バイトも家庭教師一択だった。よくよく考えたら弁護士を目指そうと思ったのも、お金がもうかりそうだからだった。それでも、学生っぽいこともしたいな~という気持ちは多少ながらあり、いろいろサークルの新歓資料を見ていたところ、新聞に入ると取材・執筆の量に応じて「活動補助費」をもらえることを知ったというわけだ。どう考えても同じ時間バイトしたほうが稼げることは、あとあと知った。

じつのところ、いやな予感は新歓期からしていた。講義のある駒場ではなく本郷キャンパスの第二食堂2Fで行われる毎週月曜の企画会議2時間超、そのために毎週提出しないといけない自分のスケジュールやら企画案やらを書いたレジュメの作成、会議でくりひろげられる先輩たちの喧々諤々の議論、ふつうに平日昼間に大量発生している取材のアポ(講義をサボって参加するのが前提)、「うちの学年が20人いるのはほんとめずらしいんだよね~上の先輩とかは人手が足りなくて留年とか当たり前だったし」という先輩の言葉……。

たぶん、2年生が20人入ったのもあって、その年の新歓は油断していたのだろう。「思っていたよりガチ」ということに早々に気づいた人間から、毎週そっと消えていった。毎週一人ずつ消えていった結果、残ってしまった一人がわたしだったのだ。なお2008年には、20人いた2年生もどんどん消えていった。

講義、取材、講義の無限サンドイッチの合間に龍岡門(東大病院のすぐそばにある、学生にとってはめちゃ辺鄙な門、第二食堂には近い)の横にあるローソンでカップラーメンを購入し、テラス席ですするような生活をしながら、「一体わたしの学生生活はなんでこんなことに……」とわが身の不幸を呪った時期もあったし、正直校了日の雰囲気が嫌いすぎて在籍中一度も校了日に部室に行かなかったほどだし、後輩のなかには心身ともにまいってしまって失踪した人間もいたくらいだし、「こんなに全員ボロボロになってまでなんで新聞ごときを発行しつづけなければいけないんだこんな団体全員でやめてぶっこわしてまえ」と思っていた時期もあるくらいなのだが……結局、基本的な在籍年限である2年生の終わりまではどうにかこうにか参加し、留年をすることもなく無事卒業した。

振り返ることもあまりなかったのだが、よくよく考えれば、社会人になってからも創立したてのベンチャー(社員わたしだけ)というなんか異常に人のいないところに飛び込んでどうにかこうにか生き延びられたのは、学生新聞時代に一度「訓練」を終えていたからにほかならない。

自分がもし再び大学1年生から人生をやり直せるとしたら、絶対に大学は慶應大学経済学部経済学科でサークルはESAとかにしようと思っているので、誓っても同じ学生新聞団体に入ることはないのだが、この人生で学生新聞に入ったのはまあ結果的には今の自分のためになっているんだと思う。

ちなみにわたしが学生新聞激務時代に学んだのは、以下の6点だ。

1)自分が徹夜してスケジュールの帳尻をつけようというスタイルで仕事を回しているといつか死ぬ

2)「他に人がいないから……」という理由で仕事を引き受けつづけているといつか死ぬ

3)「他の人が頑張ってるから……」という理由で偽りの自発性で仕事を引き受け続けているといつか死ぬ

4)構成員が健康的に仕事していない団体に人は入ってこない、一時的に入ってきてもすぐやめる、あるいは死ぬ

5)20パーセントくらい余力を残して仕事する人員も、組織には必要である(他の人が死んだときの保険として)

6)本当に疲れている人々のところにはサークルクラッシャーもやってこない

ちょっとよくない団体のように書いてしまったが、わたしが書いているのはあくまで「2008年の某新聞」であって、その新聞は今でも続いているので、きっと状況は改善されているのではないかと思う。自分がもし再び大学1年生から人生をやり直せるとしたら、慶應(ryに入ると思うが、現時点で幣大学に入りたかったりそれでマスコミ志望だったりする人間には、あれほど就活に役立つ団体もないと思うし、大学の名前を出すだけでいろいろな有名人に取材に行けるというのもほんとうにめぐまれていると思う。

わたしは「Campus Girl/Guy」という、学内の美男美女紹介コーナーみたいなものも担当していたのだが、このブログを書くために当時のメールフォルダをひっくり返していたら、数年前に、人づてに亡くなったという話を聞いた男性についての紹介原稿が出てきた。卒業後その訃報を聞いた当時もなかなか驚いたのだけれど、それから4年経ってもこの原稿の存在は残っているし、もしかしたら彼のご家族のところにその新聞も残っているんだなあと思うと、ちょっとだけふしぎな気持ちになった。読み返してみて「わ、我ながらつまらねえ……」と思ったので、もうちょっとうまく書けるとよかったな……。