It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

ひらりさ 2021年の活動履歴

この記事は、ライター・ひらりさの執筆やイベント出演など単発仕事のアーカイブです。雌猫名義だが個人として寄せたものも、一部含まれます。

自己紹介、連載紹介、仕事の依頼については以下記事をご覧ください。

zerokkuma.hatenablog.com

 

9月

www.joqr.co.jp

柴田阿弥さんがパーソナリティを務めるラジオに出演しました。

 

8月

woman.mynavi.jp

マイナビウーマンさんで、令和のオタ活費用についてコラムを執筆しました。

 

www.tbsradio.jp

TBSラジオで、「わたしとラジオと」に寄稿しました。

woman.mynavi.jp

「コスメアカの履歴書」でコマチさんに取材しました。

 

www.wanibookout.com

WANI BOOKS OUTで小田急線の事件について書きました。

 

realsound.jp

リアルサウンドさんで、動画番組「作家と音楽と映画。」のMCを務めました。

gendai.ismedia.jp

FRaUで姫乃たまさんと対談しました。

 

7月

 人生初の単著が発売しました!

book.asahi.com

単著に関する取材を受けました。

 

natalie.mu

コミックナタリーさんにて、LaLa45周年記念の座談会に参加しました。

 

lidea.today

LIONさんのオウンドメディア「Lidea」で、推し活の心理学を取材しました。

 

www.wanibookout.com

連載「それでも「女」をやっていく」で、悪役令嬢の話を書きました。

 

6月

 

subaru.shueisha.co.jp

すばる7月号に、松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(中央公論新社)の書評を寄せました。

 

woman.mynavi.jp

「コスメアカの履歴書」で、りょかちさんに取材しました。

 

bunshun.jp

あさのますみさん『逝ってしまった君へ』(小学館)の著者インタビューをしました。

 

5月

bookandbeer.com

本屋B&Bにて、瀬戸夏子さんとトークイベントを行いました。

 

www.wanibookout.com

連載「それでも女をやっていく」でエッセイを書きました。

 

www.amazon.co.jp

LDK the Beauty」7月号で、「推し色メイクレシピ」の構成を担当しました(最終回!)。

 

4月

 

natalie.mu

雑誌「onBLUE」にて、一穂ミチさんのインタビューを担当しました。

 

woman.mynavi.jp

連載「コスメアカの履歴書」にて、Samiさんに取材しました。

 

febri.jp

ウェブメディア「Febri」に、漫画「ベルリンうわの空」について寄稿しました。

www.amazon.co.jp

LDK the Beauty6月号にて「推し色メイクレシピ」の構成を担当しました。

 

3月

www.wanibookout.com

連載「それでも女をやっていく」でエッセイを書きました。

 

natalie.mu

コミックナタリー 「スケートリーディング☆スターズ」特集にて、神谷浩史さんのインタビューを担当しました。

 

jj-jj.net

Weekly JJのカバーインタビュー「REAL FACE for Gen Z」にて、YouTuber古川優香さんのインタビューを担当しました。

www.gqjapan.jp

GQ5月号「アジアを席巻する『ボーイズラブ』入門」にて、小説家・凪良ゆうさんのインタビュー、2021年最新BL小説・漫画ガイドの選書・執筆を担当しました。

 

www.amazon.co.jp

LDK the Beauty5月号にて「推し色メイクレシピ」の構成を担当しました。

 

2月

www.kankanbou.com

短歌ムック「ねむらない樹 vol.6」にて、飯田有子「林檎貫通式」の書評を寄せました。

tokion.jp

TOKIONにて、ソウル在住のアーティスト イ・ランさんのインタビューを担当しました。

 映画「あのこは貴族」に応援コメントを寄せました。

 

jj-jj.net

Weekly JJのカバーインタビュー「REAL FACE for Gen Z」にて、モデルNikiさんのインタビューを担当しました。

digital.asahi.com

朝日新聞のメンズメイク特集で、コメントをしました。

brutus.jp
BRUTUSにて、アイドルの姫乃たまさんと「推し、燃ゆ」の対談を行いました。

 

1月

woman.mynavi.jp

連載「コスメアカの履歴書」で「つめをぬるひと」さんにインタビューしました。

natalie.mu

コミックナタリー 「青に、ふれる。」特集にて、著者の鈴木望さんとタレントの有村藍里さんの対談を構成しました。

 

www.wanibookout.com

連載「それでも女をやっていく」でエッセイを書きました。

『白い薔薇の淵まで』(中山可穂)

いつでもどこか遠くへ行きたい、ここではないどこかへ。それなのに、行く術も行くだけの覚悟もなく、どこに行き着けばいいかもわかっていない。

10代の頃そんなふうに思っていたのはーーそして20代、30代になってもその気持ちを抱えているのもーーきっと私だけではないだろう。そんな気持ちに寄り添ってくれる作家が、中山可穂だ。20年ぶりに復刊された『白い薔薇の淵まで』を読んで、改めて感じた。

白い薔薇の淵まで (河出文庫)

 

集英社から単行本が出たのが2001年。本当に20年ぴったりの復刊だ。

私が読んだのは2005年だったはずだ。当時刊行されていた読書雑誌「かつくら」で紹介されていたデビュー作『猫背の王子』をまず読んだ。表紙には、鋭利なナイフを硬く握り締めた、鋭利なナイフのような裸身の女が印刷されており、どきどきしながら本をめくると、一文目で深く心をえぐられた。

 

 

自分とセックスしている夢を見て、目が覚めた。

どのページにも、すでに失われたもの、これから失われるものがあることを暗示させる痛々しさがみなぎっていた。

王寺ミチルシリーズ2冊目の『天使の骨』を読み、『深爪』『感情教育』『マラケシュ心中』『花伽藍』など既刊を追った。そのうちに上下巻の『ケッヘル』が刊行され、こちらも夢中で読んだ。『猫背の王子』のことはあまりにも愛しすぎて、友人とのヨーロッパ旅行で、表紙に使われた写真のアーティストであるJan Saudekのギャラリーまで行ったくらいだ(元を辿ると、当時私がヨーロッパに憧れて旅先に選んだのも、よく考えたら中山作品の影響だという気がしないでもないが)。

 

www.saudek.com

 

近作である宝塚シリーズは、周囲の同世代でも話題にしている人が多く、勝手ながら嬉しく思っていた。それでも若い頃の自分の自意識を救ってくれていたのは初期作品にあった、張り詰めた脆さだった。だから『白い薔薇の淵まで』の復刊を知って、本当に本当に楽しみにしていた。

最愛ツートップである「卒塔婆小町」(『弱法師』収録)と『猫背の王子』は都度読み返していたのだが、『白い薔薇の淵まで』を読むのは久しぶりだった。20年経っても変わらず、土砂降りの大雨のようにこちらを揺さぶってくる恋愛小説で、何にも色あせていなかった。傘を持っていたつもりだったのに、ずぶ濡れのまま立ち尽くしているような読後感だ。

話の骨子は、至ってシンプルだ。恋人もいる平凡なOL・とく子(クーチ)が、深夜の書店で破天荒な新人女性作家・山野辺塁と出会い、激しい恋に落ちる。傷つけて傷つけられ、周囲を巻き込み、何度も修羅場を繰り返しながら、二人が行き着く先を描いている。


過去の自分にとって、なぜ『白い薔薇の淵まで』が「一番」ではなかったのかを考えた時に、視点の問題があったかもしれないと今回気づいた。『猫背の王子』も「卒塔婆小町」も、基本的には振り回す側の人間の視点で展開される。王寺ミチルも、老婆も、周囲を魅了する魔性の持ち主だが、自分を愛してくれる相手に一定の情愛を抱きながらも、相手が望む形では受け取ることができずに「逃げる」側だった。彼女たちはかなりずるい人間なのだけれど、彼女たちは彼女たちなりに必死なのが視点を通じて開陳されているため、どうしても感情移入し、好きにならざるを得なかった。

それに対して、『白い薔薇の淵まで』は、塁に振り回されるクーチの視点で進む。正直、10代で読んだ当時は、塁のあまりの不安定さと、それに食らいつきつつ塁を傷つけもするクーチのことが、あまり理解できなかったのだと思う。

 

「あんたそんなに死にたいの? わたしをひとりにしてもいいの? そんなにひとりで充足しているわけ? それなのに何のために抱くのよ? あんたなんか野良猫と同じなんだからさ、死ぬときは姿を消して、わたしの目の届かないところで勝手に死んでちょうだい。あの猫いつのまにかいなくなったけれど、どうしているだろうって、ずっと思わせ続けるだけの誇りくらいもってよね」

 

「書きたいから、ひとりにしてよ」

「そんなにわたしのことが邪魔なの?」

「いたら書けないよ」

「いなくても書けないんでしょ。だったらやめなさいよ。あんた才能なんかないのよ」

塁の目が残酷に光るのをわたしは見逃さなかった。

「今、何て言った? 能なしだって?」

 

「犬も食わない」としか言えない場面の連続で、読めば読むほどこちらの心もずたずたになる。クーチが、一般社会、つまり「才能」では物事が動かない世界の住人であり、彼女の恋人や家族との関係を通じて、そちらの世界が描写されるのも、その威力に拍車をかけていた。

先であげた2作では愛し憎み合う同士の間に「才能」というファクターが大きく関わり、片方が片方の「才能」「能力」を認める以外の愛を返さないために歪みが生じる。それは、両者が一応は価値観の重なる世界に暮らしていることも意味している。

しかし本作では、クーチと塁は別の世界に暮らしている。クーチは小説を読む人間で、塁と出会ったのは塁の著作がきっかけではあるものの、塁の才能に惚れているのではない。塁の才能や欠落を本当には分かっていないこと、そのために塁のことを実質的には救えないことに傷つき、塁の才能をわかる人間ーー5年前の締め切りをいまだ果たさない塁をち続けている男性編集者・古巻や、一読者として塁の作品を読んでいた友人の由美ーーに密かに嫉妬している。そうした嫉妬が、時に修羅場の原因になる。二人の情愛に圧倒されつつも、クーチのことを、塁に転落させられた側だと感じていたかもしれない。

しかし読み返すと、その印象がかなり一面的であったことに気づいた。桁外れに孤独で破天荒な塁に見出されたことでクーチの人生が大きく変わってしまったのは間違いない。それでも今回は、クーチの中にも、塁と出会う前から深淵があって、行き着くところまで行き着くだけのエネルギーを溜め込んでいたのだ、と読めた。そして、才能を媒介していないからこそ、二人の愛の純度はどこまでも高まっていったのだということも。

 

わたしは脳髄の裏側に白い薔薇を植えたことがある。

花を咲かせたのは数えるほどしかない。

 

あとがきで、筆者は「現在の自分は、全身恋愛小説家の肩書は返上しなければならないだろう」と語っている。それを聞くと尚更、『白い薔薇の淵まで』などの初期作品が、渾身の執念で「恋愛」と向き合っていたことが伝わってくる。でも、その「恋愛」は、ただ性愛でも、二者間のコミュニケーションにとどまるものでもない。「行き着けるところまで行く」ことが描かれているからこそ、私は心惹かれて読んでいたのだと思う。

本当に、気が狂うほどに美しい小説だ。

現実に抗う手段としてのロマンスーー『赤と白とロイヤルブルー』(ケイシー・マクイストン)

赤と白とロイヤルブルー (二見文庫ザ・ミステリ・コレクション)

今年の3月、メンズ雑誌「GQ」の「アジアを越境するボーイズラブ」特集に参加した。

www.gqjapan.jp

「2gether」に代表されるBLドラマブームに端を発する特集で、私はBLレーベル出身で本屋大賞を受賞された凪良ゆうさんのインタビューと、初心者に薦めたいマンガ・小説を10冊ずつ紹介するコーナーを担当した。過去作を読み返したり、新しく読んだり、とても楽しい仕事だった。

その一冊として選書したのだが、先日ブログに書いたサリー・ルーニーの『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』を読んだあとに、ミレニアル世代の作家つながりで思い出した作品がある。二見書房ザ・ミステリコレクションの『赤と白とロイヤルブルー』だ。

著者名からも分かるとおり、翻訳小説だ。BLレーベルから出ているわけではないのに、どうして存在を知ったのだっけ……。記憶を掘り起こしたところ、刊行当時「BL好き必見」と銘打たれ、全米ベストセラー1位となってドラマ化が決定している旨を紹介した記事が出ていたからだった。

www.moviecollection.jp

「GQ」でのブックガイドでは、あくまでBLに興味を持っている人向けに紹介したのだけれど、今回改めて読んで、ロマンス小説としての完成度、かつジャンルの約束を越えて設計された綿密なディテール、それを120パーセントやってのけた著者の情熱と意思の強度にすっかり圧倒された。

主人公のアレックスは、21歳の大学生。テキサスで生まれ、庶民的な感覚を持つ彼だが、同級生と一つ大きな違いを持っている。それは母親が、アメリカ史上初の女性大統領であること。姉のジューン、副大統領の孫のノーラとともに「ホワイトハウス三人組」と呼ばれる彼は、ソーシャルメディアゴシップ誌を通じて同世代のアイコンとなることで、政権の支持率にも貢献している。

母親エレンの再選をかけた次回の大統領選挙に向けたキャンペーンが徐々に走り出す中、アレックスは大きな失態を犯してしまう。招かれたイギリス王室のロイヤルウェディングの結婚式で、花婿の弟にして王位第三継承者であり(女性誌への登場回数でアレックスと競うライバルでもある)ヘンリー王子と小競り合いになり、七万五千ドルのウェディングケーキを倒壊させてしまったのだ。

米英戦争勃発かと騒ぐ世間を宥めるため、エレンはアレックスに「ロンドンへ行き、ヘンリー王子と仲良しであるとSNSでアピールしろ」と言う。もともとヘンリーに屈託を抱いていたアレックスは最悪の気分で母親の指示に従うが、ヘンリーと交流し、その素顔を知るうちに心惹かれていく。

アメリカ大統領の息子と英国の王子が恋に落ちたなら?というアイデアは、刺激的で最高にロマンティックだけれど、現実的にはありえないことだ。私がそうだったように、本書を手に取る読者たちは、浮世離れしたロマンス小説として読み始めることだろう。実際、ロマンスとしての醍醐味もふんだんにある。

「何が言いたいか、よくわからないよ」アレックスは言う。

「わからない?」

「ああ」

「本当にわからないのか?」

「ほんとに、ほんとに、わからない」

ヘンリーはもどかしさに顔全体をくしゃくしゃにして、目を上空へ向ける。冷酷無比な天空に助けを求めるように。「きみのにぶさは絶望的だ」ヘンリーは言い、アレックスの顔を両手ではさんでキスをする。

 

「はるばるここまでぼくを侮辱しに来てくれてうれしいーー」

「おい、ぼくは君を愛してるんだぞ」アレックスはなかば叫ぶように言う。ついに口にした。もう取り消せない。ヘンリーはマントルピースにもたれたまま、微動だにしない。王子がごくりと唾を呑み、あごの筋肉をひきつらせるのを見て、アレックスは不安で失神しそうになる。

「ああ、全く、面倒かけさせやがって。それでも、ぼくはきみを愛してる」


しかし、本作に、ロマンス小説として求められる以上のリアリティを持たせて、(クソッタレな)現実を打ち破ろうという強い意志が著者にあることが、以下の三つの観点からうかがえる。

一つ目は、デジタルネイティブが親しむ固有名詞の洪水(BTSまで出てくる!)。

 

「賭けは賭けだよ。一ヶ月以内に新たな噂話が出れば五十ドルだったよね。ちなみに、ぼくが使ってる送金アプリは<ベンモ>だから」

 

「ロイヤル・ウェディングも、ロイヤル・ウェディングをする王子もくだらないし、そもそも王子を存在させる帝国主義がくだらない。全部まるごとくだらないカメだ」

「それがあんたがTEDで発信したいこと?」ジューンがちゃかす。

アメリカも大量殺戮帝国なんだけど、それをわかってる?」

 

二つ目は、ロマンスとともに展開していく選挙キャンペーンの綿密さ。

二〇一六年、母が本選挙で勝利をもぎ取ったとき、最大の悔いとして残ったのがテキサス州を取り逃がしたことだ。母はニクソン以降ではじめて、大統領選挙に勝ちながら居住州で負けた大統領となった。元来が共和党支持州のテキサスだから意外ではないのだが、みんな最後には”ロメタの穴馬”がテキサスを取るのではないかというひそかな希望をいだいていた。それは叶わなかった。

最後は、周辺人物が有している、多種多様なバックグラウンドが、アレックスの目覚めを通じて可視化されていく過程だ。

「でも、ぼくにはそれを教えてくれる人が必要なんだよ。きみはどうしてわかったの?」
「さあ、どうしてかな。高校二年のとき、女性のおっぱいをさわったからかな。深遠ななにかなんて、まるでなし。オフブロードウェイの戯曲にはならないわね」

 

「あの、ぼくたちいちゃついたことがあっただろ? あれは、その、なにか意味があったのかな?」
「ぼくがその質問に答えてあげられるとは思えない…(中略)…いまきみがセクシュアリティのことでどんな危機に直面しているか知らないけど、あれからの四年でわかったことがあるはずだ。いいかい、高校時代にぼくたちのあいだにあったから、きみがゲイになったとか言いたいわけじゃない。でも、ぼくがゲイなのは確かだし、当時はゲイジャないみたいにふるまっていたけれど、ぼくはあのときからゲイだった。

 

放送のなかほどで、声援を送る群衆の先頭にいるエイミーが映る。ジューンの黄色い”歴史だって?”Tシャツを着て、トランスジェンダー・プライド・フラッグのピンバッジをつけて。

 

ここでは性自認・性指向にかかわるシーンを引用した。しかし人種や社会階級についても、とても意識的に描写がされている。ケイシーはこれらを徹底的に書き込み、その上でアレックスとヘンリーの恋愛を成就させる。それはつまり、人々が諦めていることーー同性同士が愛し合うことを含めて、世界が多様な人々を認め合い、共存できる場所となることーーが不可能ではないと説得する試みだ。

ケイシーは1991年生まれで、バイセクシュアルであること、ADHDであることを公表し、さらにノンバイナリーでもある(英語版のwikipediaでは「They」で記述されている)。『赤と白とロイヤルブルー』はケイシーのデビュー作なのだが、構想は2016年の頭に生まれたのだという。その後起きたトランプの当選により一時絶望していたが、だからこそ「おもしろ半分のパラレルワールドになるはずだったもの」を「信憑性がある程度にはちゃめちゃで、でも、多少ましな、多少希望をいだける世界」にすることに決めたのだと、後書きに書かれていた。

本書のエピグラフにはこう記されている。

「for the weirdos & the dreamers(変人と夢想家に送る)」

ディストピアと化した現実社会を覆したいという全力の祈りを、明るく愉快に大真面目に形にしたロマンス小説だ。

 

……ちなみに、私が『赤と白とロイヤルブルー』を再読して、「この版権獲得して日本で出した二見書房はすばらしいなあ……さすが天下のシャレード文庫(数々の名作を世に送り出している老舗BL小説レーベルなのです)を擁する版元……」と感動していたら、まさに版元Twitterがバズっているのを観測した。

このツイートを見て、「もっと売れてくれ〜〜」と思って書いたので、気になった方、ぜひ買ってください!

 

 

 

 

しゃべってるのに伝わらないーー『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』(サリー・ルーニー)

カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ

雑誌の「百合」特集で取材を受けた。最近自分の半生を振り返って、私って10〜20代の時何してたんだっけ、何もしてないな、意識でも失っていたのか……?と落ち込んでいたのだが、取材のおかげで、そういえば百合とBLを無限に読んでいたのだ、と思い出した。

当時、百合とBLに耽溺したのは、ヘテロセクシュアル恋愛規範の枠組みがもたらす苦痛からの逃避の意味合いが大きかった。でも同時に、人間の分かり合えなさと存在の心許なさが、「恋愛」を通じて描かれることに魅力も感じていたんだろうなとも今さら気づいた。恋愛小説が好きだからこそ、百合とBLを読んでいたのだ。

『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』は百合でもBLでもない。しかし、世間で当たり前とされてきたものーー1対1のパートナーシップに基づく恋愛規範、家父長制に紐づいた「家族」という共同体、後期資本主義に支えられた上昇志向ーーへの疑念を持ちながらも、それらを完全に捨てては生きられない人たちの関係の揺れ動きを通じて、人間の分かり合えなさと存在の心許なさを描く、とても切ない恋愛小説だった。「切ない恋愛」小説、ではなく、切ない「恋愛小説」だ。

 

 

本書は一人称で進行する。語り手のフランシスは、ダブリンで大学に通いながら、詩人としての活動を行っている21歳。同い年の同性で、高校の時の恋人でもあるボビーとともに詩のパフォーマンスを行っているうちに、二人の活動に目をつけたジャーナリスト・メリッサから、取材をしたいと言われる。裕福とはいえない家庭で育ったフランシスは、世間に認められた彼女と、その夫であるハンサムな舞台俳優・ニックのステータスや生活にコンプレックスを感じつつも、12歳歳上で既婚のニックに惹かれていく、という筋書きだ。

これだけ書くと、そこまで特別な作品には読めないかもしれない。かつて付き合っていた同性の恋人が親友になっている、という設定には新しさがあるものの、基本のストーリーラインとしてはハンサムな既婚歳上男性とのロマンスがメインであるように読める。実際、小説の軸となっているのがフランシスとニックの関係であるのは間違いない。しかしその軸は縦糸の一本にすぎず、フランシスとボビー、メリッサとニック、メリッサとボビー、ニックとボビーといった関係の糸と絡み合い、途中、ほつれたり切れたりする。そこに、フランシスの父母に対する葛藤や、中盤に発生する身体的なコンプレックス、人間関係で傷つけられ傷つくことへの恐れ、金銭的な困窮と才能の用い方、などにまつわるエピソードが起伏をもたらしている。

恋は生活に勝たない。関係は一定に定まらない。未来は何も決まらない。自分がどうしたいかもわからない。どこにも行けない閉塞感が終始ただよっていて、そこにほんの少しのもがきと希望があって、でもやっぱり出口がないままで終わる。文章の大半は登場人物たちの会話、電話、チャットを通して構成されているのに、あきらめていて、ものしずかだ。本書の文体は、会話文をダブルクオーテーションで括らず、地の文と続いた形で綴られているのが特徴なのだが、この、饒舌さと反対のしずかな断絶感を出すためのものではないかと思った。奥の奥には、意識的なおしゃべりには表出しない、かすかに脈打つ何かがある。

これを「Snapchat世代のサリンジャー」と銘打ちたいマーケティングサイドの気持ちもわかるが、それに反した「自分以外の誰かを代弁するつもりはない」と語るサリー・ルーニーの言葉は本心なんだろうとも感じる。フランシスのキャラクターも、置かれている状況も、読者が自分と重ねることができないほどにドラマティックだ。それでも、ルーニーが描くフランシスの振る舞いや物語世界の情景のはしばしに、なぜこんなにも、つながらないと生きていけない私たちの息苦しさをすくいとってくれるのだろう、と思わせられた。

私は決まった単語やフレーズを検索して、出てきた会話だけを読むことにした。最初に「愛」で試してみると、六ヶ月前のこんな会話が出てきた。…(中略)…この会話を読んだ後、私はベッドから起き上がり、服を脱いで鏡を見た。衝動のようなものに駆られて定期的にこうするのだが、いつもと特に変わったところは見られなかった。

 

まるでただの知人みたいに、特に愛情や憎しみを込めることもなく彼女がリースの名前を口にするのを見てそれから何ヶ月も、そしてきっとこれからもずっと、いつかボビーが自分の名前を同じように口にするのだと思って私はおびえていた。

 

これを聞くと私はゆっくりと顔から携帯を離して、それをじっと見つめた。こんなのはただの物体だ、何の意味もない。ニックの声が耳に入った。フランシス? でも他の物音と同じで、かすかにしか聞こえてこない。通話を切らないまま、そっとベッドサイドテーブルに携帯を置いた。ニックの声はザーザーという雑音に変わって、言葉として意味を為さなくなった。私はベッドに座ってゆっくりと息を吸って吐いたが、ゆっくり過ぎて呼吸をしていないのも同然だった。


ちなみに原書には「現在時制(Present Tense)」で書かれているという特徴もあるらしい。ちなみに(『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』の原著はそうではないが)、第二作である『Normal People』には「現在時制(Present Tense)」で書かれているという特徴があるらしい。

newrepublic.com

www.tokyobookgirl.com

英米文学にわかすぎて、今回初めて知ったのだが、英語の小説って基本的に時制統一で書かれて、「過去時制(Past Tense)」が基本なんですね。ただこれはルーニーだけの文体というわけではなく、2010年代に入ってから現在時制の小説が増えており、ミレニアル世代のせいだとか、いろいろ議論があると知って驚いた。

nojobforsissies.blogspot.com

 

www.theguardian.com

 

実は1月に読んだロマンス小説『赤と白とロイヤルブルー』の訳者あとがきにも「現在時制で書かれているのが特徴的」というコメントがあったなあと思って、『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』の後に読み返していた。本作と良い意味で全く異なる、ミレニアル世代ならではの文学だと思ったので、別途書きたい。

 

※追記:
訳者の山崎まどかさんよりご指摘いただいた点(カンバセーションズ・ウィズ・フレンズは、現在時制ではない)を修正しました。また、言及のある記事も紹介させていただきました。

恋愛と自動車運転の違いーー『21世紀の恋愛 いちばん赤い薔薇が咲く』

恋愛が苦手だ。

恋愛は自動車運転に似ている、と思う。私は大学時代に運転免許を取得しているのだが、その後一度もハンドルを握ったことがない。アクセルとブレーキを踏み分けながら、サイドミラーやバックミラーで周囲に気を配り、車間距離を意識して、右折の前にはできるだけ道路の中央に寄りつつ、ハンドルを通じて意識を車幅に及ばせ、コントロールする。普段、自分の身体のサイズ感を把握しきれずにぶつかりまくって青あざをこしらえている自分にとって、こうした細かな項目群を滑らかな一連のアクティビティとして無事故無違反で行い続けるのは100パーセント無理だろうと、教習と試験を通じて完膚なきまでに悟った。っていうか私なんで免許取れたんだろう、と不思議なくらいだ。

恋愛にも同じ厄介さを感じている。アクセルとブレーキの踏み方もいまだにわからないし、無駄に高速道路に乗ったきり降りられなくなるし、頻繁にパニクってクラクションを鳴らしまくる。厄介なのは、自動車運転には自動車というツールが必要だし、一度やらないと決めたら10年くらいは避けて暮らせるのに対し、恋愛は、注意して避けていたつもりが気づいたら道路の上を爆走している場合があることだ。なんなら飲酒してるのにハンドル握ってるパターンも多い。ちゃんと刑罰で規制するか、教習を義務付けて欲しいと思う。

さて、上記のような苦手意識があるからこそ、恋愛コンテンツは摂取する方だし(ボーイズラブもそうですね)、「うまい恋愛」と「うまくいかない恋愛」、「恋愛をうまくできる人」「恋愛をうまくできない人」の違いについて関心がある。最近も、単著を出すのに合わせた「女性向けエッセイ」の研究の一環で、いくつか恋愛ブログや恋愛相談アカウント、恋愛指南本などをチェックしていた。「LINEを通じたコミュニケーションの極意」が必ず語られるようになっているのも変化として面白かったのだが、一番興味深かったのは、「幸せな恋愛は、自分で自分を愛するところから生まれる」というメッセージで締めるコンテンツが非常に目についたことだ。

もちろん以前から「一人でも楽しく暮らしている女性が一番モテる」「執着しない女が一番モテる」「振り回されるのはやめて振り回すことで溺愛される!」「愛するより愛されろ」的な言説は恋愛指南本のスタンダードとして存在していたのだが、そうしたメッセージングがもっと「自分軸」「自己肯定感」「セルフラブ」の文脈の言葉で発されるようになった印象がある。全員が同じ目的地に向けて最短距離で向かうべき、という規範が薄まっているからこそ、小手先のドライビングテクニックではなく、ハンドルに添えた手に力を込めすぎるな、なんならその車は降りたっていいという気持ちでやれ、という自己啓発が人気なのかも知れない。実際、恋愛をしたい、という気持ちから、結婚・出産・セックスなどが取り除かれてしまえば、他者を通じて自分のアイデンティティを形成したい・承認を得たい、という欲望が大きいのは間違いなく、前者3つの比重が社会の中で軽減するにつれ、指南本の中にアイデンティティを慰撫する言葉が増えるのは納得だと思う。

ただ、一つ疑問もあった。そうしたメッセージは、もはや「恋愛指南」ではなくなっているのではないかということだ。「苦しい恋愛はやめよう」というのは、恋愛という、現代において「してもしなくてもいい」ことに合理性を持ち込むロジックだからだ。徹底的に合理化された恋愛は、恋愛と言えるのだろうか?

などと考えていたときに人から薦められたのが、『21世紀の恋愛 いちばん赤い薔薇が咲く』だった。

 

大学で政治学、哲学、文学などを専攻した後に独学でマンガを学んだという非常にユニークな経歴の著者による本で、中身も全てマンガである。ただ、フィクションではなくて、著者のありとあらゆる知識が総動員された「学習マンガ」だ。特に、エヴァ・イルーズの「Why Love Hurts」とビョンチョル・ハンの「The Agony of Eros」の理論が下敷きになっている。

大枠としては「レオナルド・ディカプリオは、なぜ若い水着モデルを取っ替え引っ替えするのか?(彼は恋愛をしていると言えるのか?個別の他者に何も感じていないのではないか?)」という問いを皮切りに、現代人、主にヘテロセクシュアルがなぜ恋に落ちにくくなっているのかをあれやこれやと洞察していくマンガで、全編とっても面白い。私が先ほど書いたような問題意識ーー徹底的に合理化された恋愛は恋愛と言えるのか?にもきちんと触れられていた。97ページから始まる第二章「あんたのかわりはすぐに見つかる」だ。

第二章は、ビヨンセの「Irresplacable(替えがきかない)」という曲を導入に始まる。タイトルに反して、「新しい彼なんてすぐできるわ」「自分のことをかけがえがない人だと思うのはやめてよね」という内容の曲なのだが、本書ではこの曲に象徴される考え方を「あんたのかわりはすぐに見つかる主義」と名付け、物事の決定権はあなた(女性)にあり、大切なのは何よりも自分自身(女性)だ、恋愛のせいで何かを我慢しているならそれに抵抗しよう、と呼びかける「自己強化フェミニズム」の一種だと定義している。なるほど、日本における恋愛指南本のコンテクストにも同様のフェミニズムが侵食しているのだなと納得できた。

その上で本書は、こうした自己強化フェミニズムは、不幸な恋愛と自己責任の結びつきを強化することによって、むしろ個人を追い詰めてしまうのではないかと提示しているのが、面白かった。「あんたのかわりはすぐに見つかる主義」は、後期資本主義が生み出した考え方であり、恋愛の本質を損ねるものではないか(つまり”幸せな恋愛”につながるものではない)というのが筆者の見解だった。安全運転第一ではなく、無駄や失敗も織り込みながら行われるのが、やはり恋愛の面白さなのだ。そう考えると、恋愛と自動車運転はやっぱり違うのかもしれない、と思わされた。もちろん、事故りすぎているといつか死ぬこともあるし、周囲としては迷惑だろうし、ビヨンセJay-Zと直ちに別れるべきだと筆者も言っているが……。

 

最近発売したばかりの「現代思想 2021年9月号 特集=<恋愛>の現在 -変わりゆく親密さのかたち」でも、本書や、下敷きになっている2冊を参考文献として挙げている論考があったので、現代思想が面白かった人は本書も合わせて読むといいと思う。

 

 

ちなみに、現代思想に寄稿している谷本奈穂さんの「恋愛の社会学」も良かったです。

 

 

逸脱と波打ち際ーー『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』

 

 
『だから私はメイクする』という本を編著した。2018年のことだ。

自分が「おしゃれ」がわからない人間なのでみんなの事情を知りたいというところから始まった企画だったのだが、編集していく中で、自分の好きに装うことは「日々の生活への抵抗」となるのだ、というメッセージが立ちあらわれてきた。書籍版の見返しにはこんな惹句を載せた。

『自分がどうありたいか』を知るために、私たちは今日もおしゃれして、”社会”という名の戦場へ向かう。

『非国民な女たち』は、まさに社会という名の戦場で、おしゃれのために抵抗した女たちについての研究書だ。年始に書店の棚で見かけて手に取ったのだが、新型コロナウイルス感染症の流行に伴う幾度もの緊急事態宣言の発令や、たびたび喧伝される「不要不急」の文言にうんざりするうちに、この本のことを思い出した。

内容はタイトルの通り。戦時下の日本で、女性たちがパーマネントや洋装のような「禁止されたおしゃれ」をいかにして継続し、モンペのような「推奨された国民的よそおい」にこっそり抵抗していたか、を政府の発令や新聞記事、美容関係者の回顧録などの文献をもとに紐解いていく。

著者はまず、「真っ直ぐな髪を後ろで束ね、モンペをはいた」姿が、銃後の女性のイメージとして定着していたことを指摘する。パーマネントの「禁止」とモンペの「強制」は、「戦時体制の監視と抑圧が生活の隅々にまで行き渡った事例」の象徴なのだ。たしかに私も、「銃後」という言葉を聞くたびに、「贅沢は敵」「欲しがりません勝つまでは」の言葉とともに、質素な姿で耐える女性たちの姿を思い浮かべていたように思う。

この本でも、国民精神総動員委員会(精動)によるたびかさなるパーマ禁止決議や、市電で「雀の巣頭」をした女が「時世を知れ!」と罵倒されて頭を掻きまわされたという新聞記事などが紹介されている。

しかし著者はそうした「禁止」「強制」の歴史を記述しつつも、「1943年までパーマ禁止令が繰り返されていたということは、つまり戦時中もみんながパーマをやめなかったからなのだ」と主張する。そして実際の写真や資料を交えながら、戦争末期になっても、パーマネント機の部品が徴用されても、防空壕に入ってすら、パーマをかけ続けた女たち、洋装を辞めなかった女たち、それを支えてきた美容家や洋装家たちの苦労を、明らかにしていく。

私が特に面白く思ったのが、電力規制が敷かれてパーマネント機の使用が実質不可能になったあと、女たちが配給の木炭を持ち寄ることで「木炭パーマ」が行われるようになったという話だ。

女性たちは炭が有り余っていたから持ってきたのではない。(中略)「薄の枯れたのを集めてごはんを炊いて炭を節約し」て、その炭を持って店にパーマをかけに来ているのである。

筆者はこれを、本来、国=公的領域に家計を包含していくために普及した「節約」という行為を、極めて個人的な目的に転化する点で、「彼女たちの行為は完全に逸脱していた」と述べている。しかも、木炭パーマ機は、一人がひとつ持ち寄れば使えるものではない。5〜6人ずつが持ち寄ってやっと、カーラーを十分に熱するだけの分量になるので、炭が足りない時、客は、次の客を待つ必要があった。そんな持ち寄りによって、「ある種の仲間意識や連帯感が生まれていた可能性がある」という著者の考察を見て初めて、私は「連帯」という言葉が肯定できた気がした。

「連帯」という言葉は、どうしても公的な領域や思想、行いと結びつくものだ。もちろんそうした「連帯」が実現する物事もたくさん思い浮かぶ。しかし、その連帯、公益のための連帯は「強制」との親和性がきわめて高い。本書でも、市川房枝をはじめとした女性運動指導者層が、まさに女性の「社会参加」を実現するために、精動での活動を行ったという事実を指摘している。アメリカにおける第2波フェミニズムのスローガンが「個人的なことは政治的なこと」であったことを考えても、彼女たちが「私的領域の公領域化」に邁進することは、彼女たちの立場からとても正しい「連帯」だったと思われる。社会運動というのは全てを潔白に行えるものではなく、既存のなまぐさくて利己的なゲームのなかにしたたかに参戦しないといけない時があるのも、理解できる。

それでも一方で、こうした戦略的連帯に基づく「強制」に抵抗した女たちの行動が、結果的に「連帯」になることに、とてつもない可能性を感じた。美容家や洋裁家はさておき、この時逸脱していた女たちは誰一人として「女性の社会参加」については考えていなかっただろう。今の「多様性」に紐づく美的価値観からすると、雑誌や都市生活を通じて「おしゃれ」だと思わされたものに拘泥している女たちは、むしろ没個性的だったと批判できるかも知れない。

けれど、私は彼女たちの存在を知れてよかったと思う。逸脱的連帯をしていた人々によって、個人的なものたちが、公的なものに浸されきらず、波打ち際が保たれている。私も、戦略的連帯に身を浸すことがあるだろう。自分では逸脱しているつもりで行っていたことが、すでに公的な側、強きものの側、大きなものの側についてしまっていることも、たくさんある。戦略的になる間もなく、勝手に連帯させられて、公的に利用されることも。だからこそ、自分の心の中の波打ち際を忘れないでいたい。

 

 

【余談】

ちなみに本書には、恐ろしい点が一つある。パーマネントの禁止やモンペの強制が浸透していなかったことの証左として、「もうこんな戦時下なのにあんなみっともない格好をして」といった論調の新聞投書がいくつも紹介されているのだが、それが、戦時下であることを考えた時に、むしろ呑気なまでにおっさんくさいのである。1945年6月20日に「読売新聞」に掲載されたという「黒髪をけがすナ」という投書がその極みだった。

疎開の持ち込んだ伝染病ともいうべきパーマネントが純な農村の乙女の心を汚しつつあたかも水の中にインキを滴らしたごとく、ますます蔓延している。(中略)大和撫子の姿何処にありや。君らには大和民族の誇りの黒髪があるではないか。パーマネントよ、いま日本は汝の本家と興亡を賭して戦っているのだ。ヤンキーに勝つ気なら、ヤンキーの真似はよせ、そして純な農村の乙女にかえってくれ。

 この人の呑気とキモさに感動しつつ、そう思っている私たちも、戦争が始まったとして、きっと終戦間際までネタツイやレスバに勤しんでるんだろうな……と戦慄させられた投書だった。

「政治的」であることーー「三島由紀夫VS東大全共闘〜50年目の真実〜」


2020年の春、映画「三島由紀夫VS東大全共闘 〜50年目の真実〜」の話ばかりしていた。

gaga.ne.jp


1969年5月13日、学生運動の嵐ふきあれるさなかに、新左翼的思想の筆頭である東大全共闘のメンバーの一部が、三島由紀夫を招いて討論会を行った。その映像を主軸に、三島由紀夫の言葉と思想に迫り、そして全共闘運動の総括を試みる……という内容のドキュメンタリーだ。舞台は、東京大学駒場キャンパスで最も大きい900番教室、三島由紀夫は、1968年、私的民兵組織「楯の会」を結成し、右翼の極致として、学生たちからは目の敵にされていた。

 

私はあまり学生運動について詳しくなかった。その上、三島由紀夫の作品はある程度読み、ちょっとだけ彼に憧れて法学部に入ったくせに、晩年の思想を深掘りしていないニワカだった。この討論会をまとめた『美と共同体と東大闘争』という本があるのも知らなかった。本作は、配給がGAGAコミュニケーションズとかなり大手だったのもあり、私のような人間のための映画に違いないと期待し、前年末から公開を楽しみにしていた。

ナビゲーターは、舞台「豊穣の海」で主人公の松枝清顕を演じた東出昌大。ちょうどこの年の1月に彼の不倫報道が炸裂し、映画もどうなるんだ……と思っていたが、予定通り3月に公開された。私は公開翌日に劇場に足を運んだ。観ている間は東出氏のあれこれも吹き飛んでしまうくらい没頭できる、とても良いドキュメンタリーだった。映像も素晴らしかったが、所々で入る解説・注釈が的確で、学生運動初心者(?)にうってつけだった。座席はほぼ満席で、パンフレットも劇場によっては売り切れていたらしい。

観賞後、感想やレビューなどあれこれ見ていると、「右翼も左翼も大嫌い!という人にこそ見てほしい」というタイトルの対談記事が公開されていた。

finders.me

タイトルは監督・プロデューサーの発言ではないが、私が感じたのとはちょっと違うメッセージで、なるほどと思った。

というのも、本作には、「右翼も左翼もこんな芯が通ってたんだ!」みたいな感動があるわけではないのだ。討論会についての注釈を見ていくなかで、たしかに当時の学生運動や、三島の活動、それらを取り巻く空気を知ることはできるが、討論会の中身自体は「右翼と左翼が真剣に話し合った」とは言い難い。

彼らがかわすのは、存在の話であり、時間の話であり、空間の話であり、他者の話であり、関係性――自分がそのなかでどうありたいかの議論だ。これらはもちろん当時の左翼的思想・右翼的思想とも無縁なものではないが、決して核心ではないだろう。討論会の最中に「観念界のお遊びはやめろ」と野次がとんだのも当然に思えた。その野次は、映画のなかではあくまで「下等な野次」として捉えられるし、実際そうだったとは思うのだが、当事者の大多数が共有していたのは、むしろ野次の主の感性だろう。

だから――まあ「右翼も左翼も大嫌い!」という人も観たらいいと思うけれど、このドキュメンタリーでは、右翼とはなにか、左翼とはなにか、が解体されているわけではない。あくまで三島由紀夫という一人の文学者・活動家のとてつもない熱量・魅力と、彼を招いた新左翼的思想の学生活動家たちのなかに、それを受け止める気概のある者がいて、そこの間に、奇跡的に成り立った、ある誠実なコミュニケーションの一幕が描かれているに過ぎない。


過ぎない、と書いたが、そんな「誠実なコミュニケーション」は、近年本当に貴重なものだと思う。
コミュニケーションが誠実であるにはやはり「政治的」であることをおそれない精神が必要であり、まじりけなく「政治的」であるためには意見の違う他者へのリスペクトが欠かせない。そんなことが、映像の一秒一秒からひしひしと伝わってくるのが、「三島由紀夫VS東大全共闘」なのだった。

パンフレットに、解説役の一人として出演している内田樹の文章があった。映画でのコメントも、パンフレットの文章も非常に良かった。一部引用する。

スクリーン越しにこの映画からいやおうなく吹きつけてくるのは1969年の「時代の空気」である。「政治の季節」の空気である……(中略)……「政治の季節」の人々は次のように推論することになる。
1.自分のような人間はこの世に二人といない。
2.この世に自分が果たすべき仕事、自分以外の誰によっても代替しえないようなミッションがあるはずである。
3.自分がそのミッションを果たさなければ、世界はそれが「あるべき姿」とは違うものになる。

 

討論会においてまぎれもなく「政治的」だったのは、三島由紀夫と芥正彦の二人だった。この二人は自分の今やっていること・これからやるべきことをしっかりと把握し、言葉にしていた。一瞬すれ違いを感じるやりとりもあったけれど、「自分の言いたいことを伝える」ことにずっと真摯だった。芥の側は、それ以外の目的のために相手の揚げ足をとることはなかったし、三島の側は、相手の質問がどんなに抽象的であろうと、しっかり手に握りしめたうえで、言葉を紡ぎ出していた。

三島は自衛隊員たちを説得できずに自決した。芥が参加していた全共闘も、勝利も敗北もすることなく拡散していった(詳しい人から聞いたところ、この討論会を主宰した全共闘メンバーは、決して主流派ではなかったらしい)。作中、現在の芥は、討論会を振り返って「言葉が意味をなした最後の時代」と評するが、彼らの言葉は、決して、当時の社会情勢を決定的に変えるような「意味」をなしたわけではなかった。

しかし、それでも私は三島に惹かれるし、芥のことも好きになった。実効性のある実用的な「政治」「活動」ももちろん大事だが、最初からそこを目指すのは難しく、挫折しやすい。実を結ばずとも「政治的な」態度であろうと努め、振る舞い、それをもとに創作・発信することも世界に必要だ、と励ましてくれた。たとえ、それが直接的なものでなくとも。

本作が現代の鑑賞者たちに絶賛されているのは、討論の現実世界での意義というよりも、私のように、表現者二人(芥は前衛劇団を主宰している)のキャラクター性と、とてつもない自己効力感に惹かれたからではないだろうか。ミーハーな話に聞こえるかもしれないが、彼らの魅力は、「政治的」であることとイコールだ。自身に唯一無二の価値があるととらえることは、「政治」の始まりなのだから。非政治的である限り、人間は個人として成り立ってもいない。


政治的な態度で発信を続け、その足跡を――討論会なり演劇なり文学なりもっと曖昧な形なり――残していくことは、ゆるやかに侵食するタイプの革命だ。このドキュメンタリーも、一見大衆に親しみやすくキャッチーな皮を被っているが、革命の一環だったのだと思う。芥の言う「意味」は、50年かけて、ひっそり持続していた。

では、これを観た私たちができる「革命」とはなにか。それはきっと、世界の姿と、自分が一人の人間として立つことは、決して無縁ではないと理解するところから始まる。討論会で、「文学は既成観念の破壊である」と三島が改めて強調していたが、近年のソーシャルメディアでのデモというのも、ある種の既成観念の破壊に寄与していると思う。功罪がものすごく大きく、むしろ既成観念を増長する方向に動いてしまうこともあるので、簡単には断言できないけれど。ソーシャルメディアは、人間が個人であることを後押しもするし、人間を集団に没させてその言葉から意味を奪いもする、振り子のようなシステムだ。

まあ、そんなに堅苦しく考えずとも面白い映画ではある。個人的には、「桐島、部活やめるってよ」的な萌えコンテンツともとれた(ナビゲーターが出演しているからもあるが……)。現在AmazonPrimeVideoで配信中なので、夏休みに観てみてはいかがだろうか。

 

※2020年鑑賞当時にnoteで書いたものを、加筆修正しました。