It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

ひらりさ 2021年の活動履歴

この記事は、ライター・ひらりさの執筆やイベント出演など単発仕事のアーカイブです。雌猫名義だが個人として寄せたものも、一部含まれます。

自己紹介、連載紹介、仕事の依頼については以下記事をご覧ください。

zerokkuma.hatenablog.com

 

 

 

5月

bookandbeer.com

本屋B&Bにて、瀬戸夏子さんとトークイベントを行いました。

 

www.wanibookout.com

連載「それでも女をやっていく」でエッセイを書きました。

 

www.amazon.co.jp

LDK the Beauty」7月号で、「推し色メイクレシピ」の構成を担当しました(最終回!)。

 

4月

 

natalie.mu

雑誌「onBLUE」にて、一穂ミチさんのインタビューを担当しました。

 

woman.mynavi.jp

連載「コスメアカの履歴書」にて、Samiさんに取材しました。

 

febri.jp

ウェブメディア「Febri」に、漫画「ベルリンうわの空」について寄稿しました。

www.amazon.co.jp

LDK the Beauty6月号にて「推し色メイクレシピ」の構成を担当しました。

 

3月

www.wanibookout.com

連載「それでも女をやっていく」でエッセイを書きました。

 

natalie.mu

コミックナタリー 「スケートリーディング☆スターズ」特集にて、神谷浩史さんのインタビューを担当しました。

 

jj-jj.net

Weekly JJのカバーインタビュー「REAL FACE for Gen Z」にて、YouTuber古川優香さんのインタビューを担当しました。

www.gqjapan.jp

GQ5月号「アジアを席巻する『ボーイズラブ』入門」にて、小説家・凪良ゆうさんのインタビュー、2021年最新BL小説・漫画ガイドの選書・執筆を担当しました。

 

www.amazon.co.jp

LDK the Beauty5月号にて「推し色メイクレシピ」の構成を担当しました。

 

2月

www.kankanbou.com

短歌ムック「ねむらない樹 vol.6」にて、飯田有子「林檎貫通式」の書評を寄せました。

tokion.jp

TOKIONにて、ソウル在住のアーティスト イ・ランさんのインタビューを担当しました。

 映画「あのこは貴族」に応援コメントを寄せました。

 

jj-jj.net

Weekly JJのカバーインタビュー「REAL FACE for Gen Z」にて、モデルNikiさんのインタビューを担当しました。

digital.asahi.com

朝日新聞のメンズメイク特集で、コメントをしました。

brutus.jp
BRUTUSにて、アイドルの姫乃たまさんと「推し、燃ゆ」の対談を行いました。

 

1月

woman.mynavi.jp

連載「コスメアカの履歴書」で「つめをぬるひと」さんにインタビューしました。

natalie.mu

コミックナタリー 「青に、ふれる。」特集にて、著者の鈴木望さんとタレントの有村藍里さんの対談を構成しました。

 

www.wanibookout.com

連載「それでも女をやっていく」でエッセイを書きました。

一穂ミチさんが直木賞候補になったので、オタクがおすすめ作品を5冊紹介します

こんにちは。20代半ばまで人生を商業BL小説を読むことに捧げていたライター、ひらりさです。朝起きたら、長年推していた作家さんの一人である一穂ミチさんの最新作『スモールワールズ』が直木賞の候補作としてノミネートされていて、びっくりしたし嬉しいし一日そわそわしていました。

 一穂さんは2008年に『雪よ林檎の香のごとく』(新書館)でデビューし、かれこれ50冊以上のBL作品を世に送り出しています。2016年に集英社オレンジ文庫から『今日の日はさようなら』(挿画が宮崎夏次系さん!)を刊行し、別ジャンルへと一歩踏み出された時も、すごく嬉しかったです。そして、初単行本である『スモールワールズ』の盛り上がりぶり、本屋大賞日本推理作家協会賞短編部門候補へのノミネートと、ワクワクしていたところだったのですが……直木賞候補にノミネートが来るとは……。ニュース記事の数やSNSでの言及も桁違いで、本当に、一介の読者なのに、すごくすごく胸があつくなっていました。

『スモールワールズ』は、「ふつう」からはみ出てしまった人たちの生き様を切り取った連作短編集です。

 

 

BL作品というわけではありませんが、一穂作品は商業BLにおいても常に「ふつうで安全」「世間にとけこんでいる」ものと、「はずれていて不穏」「世間離れしている」ものとが出会って化学反応を起こすのを描いてきた作家さんだと思っています。そのカラーが、BLというフィールドを越えて発揮されている本が『スモールワールズ』なので、逆に言えば『スモールワールズ』が気に入った人は、ぜひBLのほうの一穂作品に触れたら絶対好きだと思うな〜!と勝手に確信しています。「BLというと、濡れ場が激しいのでは…」と躊躇する人もいるかもしれません。もちろんジャンルの特性上セックスシーンはあるのですが、苦手であれば該当場面は飛ばすこともできるし、描写としては比較的マイルドではないかと思います。あまり気負わず手にとってみれば良いと思います。

そんなわけで過去ブログをベースに、私のおすすめ作品を5冊紹介しておきます。

 

『イエスかノーか半分か』

 

 昨年アニメ映画化もしたので、知っている人は多いかもしれない。2014年に第一作がでて、今も続いている超人気シリーズですが、一作でも読めます。舞台は、とあるテレビ局。極度の猫被りで周囲に愛される“王子”を演じている若手アナウンサーの国江田計が、「本当の姿」の時に、取材で知り合ったアニメーション作家の都築潮と往来で衝突してしまうところから始まる”二重生活”を描いたお仕事BLです。仕事描写もさることながら、「猫被りの計」と潮、「本当の計」と潮、それぞれの人間関係が進行していくことで、「二人の恋愛なのに三角関係」というトリッキーな状況が生まれ、それがものすごく萌える形で描かれているのが本作品のキモ。二つの恋愛関係が収斂していくのと、計の仕事上の試練へのチャレンジが同時に展開していくのも、ものすごくうまい。キャラクターへの愛着とともに、ストーリーの気持ち良さを味わえる一冊です。…と書いてから思いましたが、BLって「攻めと受けのすれ違い(認識のズレ)」をいかに演出するかという点で、ミステリー(犯人と読者の間の認識のズレが最後に明かされる)の手法と近いジャンルなんですよね。一穂さんは、ミステリーの作り方がとてもうまく、それが『スモールワールズ』でも生かされているなと感じました。

 

『ふったらどしゃぶり  When it rains,it pours』

 

同棲する彼女とのセックスレスに悩む一顕は、自分で自分に送ったつもりのメールのメールアドレスを間違えた結果、会社同期の整にメールを誤送信してしまう。お互いの正体は伝えないままにやり取りを始めた二人は、たわいないコミュニケーションを重ねるうちに悩みを打ち合うことに。整も実は、同居している同性に自分の思いを受け入れてもらえず苦しんでいるという秘密を抱えていて……という作品。今でこそ彼女のいる攻めの出てくる作品も結構ありますが、2013年当時は「彼女と同棲」「しかもセックスレス」という題材にかなりびっくりした覚えがあります。もともとディアプラスでデビューしている一穂さんですが、当時のメディアファクトリーが創刊した「フルール文庫」という、従来とは違った層をとりに行こうという試みの中で生まれたBLレーベルでの執筆だったからこそ生まれた作品なのかなと。BL初読の方や男性でも読みやすいかなと思っています。

 

『ノーモアベット』

 

「お仕事BL」の神である一穂ミチさん。こちらの『ノーモアベット』は、日本初の公営カジノを舞台に、ディーラー×都の広報職員の恋愛が展開する作品です。表紙の左側がディーラーの一哉で、右側が都の広報職員・逸。二人は職業上知り合ったわけではなく、実は家族同然の従兄弟。凄腕ギャンブラーである逸の父にその技術をしこまれた一哉に対して、自分には同じだけの才能がなかったと理解している逸は、どうしてもコンプレックスが拭切れずに反発してしまうが……というお話。二人が思いを確認しあうにあたってのクライマックスが「カジノでの本気勝負」なのがすごくいい。さらに、ストーリーが受け攻めの直接対決だけで終わらず、二人の家族のために命を賭けた大勝負が展開する筋立てになっていて、恋愛というのは、どちらかがどちらかを負かすだけの関係ではないというような、一穂さんの美学が感じられます。ちなみに私は、スピンオフ作品の『ワンダーリング』も大好きです!こちらは攻めがシンガポール華僑で、シンガポールの富豪の生活などが描かれているので旅行気分も楽しめる。「人生なんてつまらなくてたまらないって思ってるだろう? そりゃそうだ、お前の人生がつまらないのはな、一度も自分で選んでないからだよ」ってセリフが印象深いです。

 

 『off you go』

 

「明光新聞社シリーズ」と呼ばれる作品群の一冊。 明らかに朝◯新聞っぽさのただよう大手新聞社をメイン舞台としたシリーズなのですが、登場人物すべて記者というわけではなく、国会の速記官だったり、不祥事をリークされた製薬会社の社員だったりいろいろ。どの職業も「おしごと」部分が本当にリアリティをもって丁寧に描かれているのがとても好きです。

本作のメインキャラクターは、病弱な妹・十和子のことを気遣ってきた兄・良時(整理部記者)×十和子の夫であり、良時の幼なじみでもある密(特派員)(ちなみに、キャラクター紹介の時点で女が絡んでくるのも、BLレーベルではかなり異色……)。良時、密、十和子は、密と十和子が同じ病院に入院していたことで出会い、30年近い腐れ縁の関係です。日常生活は難なくこなせる程度に健康になった密は現在、良時と同じ明光新聞社に同期入社し、海外特派員として出世コースをわたっている。互いに順風満帆に見えたが、良時は妻の不倫により離婚することになり、その後十和子も密と離婚すると言い出す……というところまでが物語の導入。

その後3人の出会いから現在にいたるまでのいろいろなエピソードが描かれていくんですが、その描き方が本当に良時と密の「2人」の話ではなく、良時と密と十和子の「3人」の話なんですよね。もちろんBLとしての魅力も素晴らしいのですが、受け攻め二人だけの世界があればOK!ではなくて、彼らが生きる社会や、彼らが大切にしている他のキャラクターをも生き生きと描く、一穂さんらしさが十二分に発揮された作品だなと思っています。あとタイトルが本当に好き。「行っちまえ」って。誰かとても気が合うな〜と思う人と出会うと、いつも買って渡している……(笑)。

 

「ステノグラフィカ」

 

明光新聞社シリーズだとこれもすごく好き。 政治部記者・西口×衆議院速記官・碧。一穂さんのBLの好きなところのひとつは、登場人物たちがきちんと仕事をしている描写があり、その人物の性格や言葉のはしばしがきちんとその「仕事のひと」だなあと感じられること、そして物語としてのオチにもきちんとその仕事が絡んでくることなのですが、それが素晴らしいのがこの「ステノグラフィカ」。「速記官」ってもう募集停止してる仕事じゃなかったっけ?と思いながら読んでたら、きちんとそのことに対する受けの葛藤も入ってたり。 あと速記官だからこそ、「攻めの声のよさ」にひかれて、そこを入り口に好きになっていくところもいい。そして、ステノグラフィカの攻め、西口はBL小説界屈指の「人がいいけど、どこか男性性に振り回されている男」。女性部下の好意を見て見ぬふりをしておちょくったり、自分より仕事のできた元女房へのルサンチマンを抱いていたりして、その矮小さが容赦無く(しかし愛情を持って)描かれているのが、攻めをかっこよく描くことが是とされてきたBLというジャンルにおいて、すごいことだなあと思います。男性ばかりの世界の中で働く女性キャラクター、もしっかりと描写されていて、それにも励まされます。ちなみに「off you go」の二人は西口の同期です。 

 

こうやって書くと、どうしても2014年前後の作品が多いですね。wikipediaで過去作品を振り返ってみたところ、2017年以降はシリーズものの続刊の執筆が多く、全くの新作はあまりなかったようです。『イエスかノーか半分か』は続刊・スピンオフも含めてとても面白いです。ぜひお口に合うものがありますように!

 

昨年は、凪良ゆうさんの本屋大賞受賞で本当に胸が熱くなりました。そして今回改めて、一穂ミチさんという、やはり商業BL小説界を長く支えてきた方がこうしてジャンルをこえて大注目される機会に立ち会っているのが、(本当に単に一読者なんだけど)嬉しくて、新人賞がどんどん消えている商業BL小説界も活性化したらいいなと思ったりします。ただ一方で、(これも面倒くさいオタクムーブですが)作家さん一人ひとりはただ作家さん一人ひとりとして活躍してくれれば嬉しく、オタクがなんか、商業BL小説界を勝手に背負わせてはいけないなとも思う……めんどくさいな…どっちなんだよ……。また、商業BL小説界というのは、ある種のコードを作者と読者が共有しあって作り上げている世界で、だからこそたどり着ける、人間関係の描き方みたいなものがある一方で、すごく堅苦しい部分もあるジャンルだと思っています。商業BL小説界盛り上がって欲しい気持ちと、ジャンルを問わず、性別にかかわらない恋愛・非恋愛の傑作がもっと増えて欲しいです。そんなわけで、7月14日を勝手に待機しています……。

 

  

 

 

新時代の福音ーー「推し、燃ゆ」(宇佐見りん)書評

推し、燃ゆ

「推す」という動詞から「推し」という名詞が派生して、20年も経っていないそうだ。お小遣いをつぎ込んで漫画を買い、始発に乗って声優イベントに参加し、人生の大半をオタクとして過ごしてきた平成生まれとしては、短いような長いような、不思議な気持ちである。

「贔屓」「担当」など、界隈ごとに応援対象を指す言葉はいろいろあるが、「推し」ほど、ジャンルを越えた普遍性と霊性を得た言葉は初めてだろう。オタク活動を「宗教」に喩える向きも強まったように思う。『前田敦子はキリストを超えた』なんて新書が出たときには、オマージュだとしても流石に言い過ぎでは……と思ったものだが、対象の活動に金銭を投じるだけでなく、その挙動を“解釈”し、自発的な“布教”で推しの魅力を広め、C Dやグッズを並べて“祭壇”を作り、同志の振る舞い・身嗜み・品性をあれやこれやと“審問“する私たちの様子を、違う時代の人々が見たら、何らかの宗教を奉る集団なのだと勘違いしてもおかしくない。

そんな私たちのいびつな実存を、あまりにも的確にすくいとった小説が世に生まれた。デビュー作『かか』で三島由紀夫賞を受賞した弱冠21歳の新星、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』である。

語り手は、16歳の女子高生・あかり。アイドルグループ「まざま座」の男性メンバー・上野真幸(まさき)を推し、ファンブログを運営している。推しの出た番組を全て録画し、書き起こし、全身全霊で解釈する彼女のブログには愛読者がつき、お互いの推しの話題で盛り上がれる友人もいる。一方で、推しへの思いと、そこから生まれた人間関係以外に、あかりが体重を預けられるものはない。子供の頃からもの覚えが悪く、病院で診断もついたが、真幸ばかりを追いかけているあかりを、母親は持て余しており、姉は疎んじていて、父親は海外赴任中だ。活動費を稼ぐためのバイト先でも、要領の悪さゆえに「あかちゃん」と呼ばれている。それでも、推しという“背骨”を頼りに生きているあかりに、真幸が女性ファンを殴ってネット炎上するという出来事が降りかかる……。

<まだなんとも言えない。何度もS N S上で見かけた大多数のファンを同じことを思う。怒ればいいのか、庇えばいいのか、あるいは感情的な人々を眺めて嘆いていればいいのかわからない。ただ、わからないなりに、それが鳩尾を圧迫する感覚は鮮やかに把握できた。これからも推し続けることだけが決まっていた。>

よるべのない小舟のように生きるあかりだが、その意思はぶれることがない。真幸がそこにいる限り、誰かを殴ろうが炎上しようが、推し続けることが彼女の至上命題だ。すべての人間がそうというわけではないことは作中でも描かれている。推しにプロフェッショナルや擬似恋人であることを求める者は、偶像が破壊されれば、推すことを“降りる”。自力でその業から離れられる者は、幸いだろう。“降りる”先に他の推しがいる場合もあるし、それ以外の日常がある場合もある。でも、あかりには真幸以外何もない。家族も学校もバイト先も、あるはあるけれど、良い娘にも、良い同級生にも、良い従業員にもなれない。彼女にとって、現実は手に余る。そうと選んだわけでもなく、そうせざるを得ずに、あかりは推しに向き合い続ける。

けれど、徹底的に推しを眺め、真実の欠片をすくいとろうとしても、あかりが脳内に描く彼の肖像画と、上野真幸本人とが、完全に重なることはない。作中、あかりを真に打ちのめすのは、彼が女を殴ったことでも、インターネットで燃えたことでもなく、ただシンプルに、その厳然とした隔たりだ。

<もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。>

なぜその隔たりが問題になるのか? それは私たちにとって、私たちの実存が、対象を解釈し、その解釈に反射させてやっと捉えられるものだからだ。インターネットでちょっと検索すれば、無数の「あかり」が書いた文章がたくさん出てくる。推しの一挙一動に心動かされ、それをSNSやブログにつづることで、自分をかろうじて見失わずに済んでいる人たちの文章が。「推しに救われている」という多幸感は、「推して救われたい」という血の滲むような祈りの裏返しだ。祈っている間だけ感覚があり、感覚がある時だけ生きている実感がある。ゆえに、推す対象としての「推し」と、現実を生きる本人の不一致に目を向けてしまうことは、推す主体としての「自分」と、現実を生きる自分のあいだの、埋めがたい溝に目を向けることでもある。

ずいぶんナイーブと思うかもしれない。他者に依存しすぎだと呆れる人もいるだろう。しかしこれは、他者を推す私たちだけの脆さというわけでもない。宇佐見も本作のインタビューで「自律的に生きてる人ってそんなにいっぱいいるのかな?」と語っている。偶像を持たない者たちだって、妻・夫、母・父、娘・息子、子供・大人といった虚像(イメージ)に嵌まってようやく、自己を捉えたと錯覚しているだけではないか? そうした、使い古された鋳型に罅(ひび)が入った現代で途方にくれた私たちの前に、あらわれたのが「推し」という概念であり、「推す」という行為だった。私たちは、どうにか手をのばせた彼らの表面に反射させて、自分の姿を見ようとしているだけなのだ。

そんな祈りと引き換えに、私たちは数年の命を得ている。永遠の命は当然手に入らない。相手はどこまでも生身の人間で(二次元の場合もあるが)、超自然的な存在でも、死後の安寧を約束する者でもない。病める時も健やかなる時も活動を行い続けるという保証すらしてくれない。真幸は去った。私たちの推しもいつかは去る。

推して燃え尽き、“背骨”を失ったあかりには、もう何も残っていないのだろうか。そうではない、と宇佐見は示している。

<彼がその眼に押し留めていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う。(中略)思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、たたきつけるように振り下ろす。>

割れた鏡があかりに滴らせた血が、彼女に彼女自身として感じられる感情を呼び起こした。その痛みはあかりの新しい命であり、実存の前で立ち尽くすすべての者たちをいつくしむ、新時代の福音ではないだろうか。

 

※「新潮」2020年11月号に掲載されたものを、編集部に確認をとった上で転載しました。 

 

 

ひらりさ×瀬戸夏子トークイベント「女と女」選書リスト

2021年5月29日、瀬戸夏子さんをゲストにお呼びして、同人誌「女と女2」の刊行記念イベントを行いました。来場・視聴くださった皆さん、ありがとうございました。

bookandbeer.com

 

会場・オンライン合わせて60人以上の方にお申し込みいただいたそうです!嬉しい。アーカイブ視聴の予定の方、ぜひお忘れなく……(笑)。

そしてそもそもイベントのきっかけである「女と女2」も既にかなり売れたようです。欲しい方はお早めに!

 

同人誌では瀬戸さんに「少女小説家になれなかったあなたへ」という文章を寄稿してもらいました。トークイベントの第一部で、同人誌のコンセプト、少女小説の話に触れた後、第二部では、二人が影響を受けた雑誌「活字倶楽部(かつくら)」について熱く語った上で、私と瀬戸さんがそれぞれ、「女と女」という枠組みに合わせて小説の選書をを紹介しました。かなり駆け足だったのもあり、ブログにて全書名をリストアップしておきます。

 

【ひらりさ】

荻原規子西の善き魔女」シリーズ
中山可穂『猫背の王子』
サラ・ウォーターズ『荊の城』
綿矢りさ勝手にふるえてろ
うえお久光紫色のクオリア
桜庭一樹青年のための読書クラブ
有吉佐和子華岡青洲の妻
柴田よしき『聖なる黒夜』
藤野可織ピエタとトランジ』
チョン・セラン『屋上で会いましょう』

 

【瀬戸夏子】
〜日本編〜

桐野夏生『グロテスク』
金原ひとみマザーズ
高橋たか子『誘惑者』
今野緒雪マリア様がみてる いばらの森
嶋田双葉「冬服の姫」
栗本薫タナトス・ゲーム 伊集院大介の世紀末』
宮田眞砂『夢の国から目覚めても』
川端康成『雪国』
飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使2』
鹿島田真希『黄金の猿』
江國香織『がらくた』
松浦理英子ナチュラル・ウーマン』
武田泰淳『貴族の階段』
瀬戸内寂聴孤高の人
藤森直子『ファッキン ブルー フィルム』


〜海外編〜

キャサリン・ハリスン『キス』
アナイス・ニン『ヘンリー&ジューン』
洪凌『フーガ 黒い太陽』
リュドミラ・ウリツカヤ『ソーネチカ』
クラリッサ・リスペクトル『星の時』
ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』
シャーリィ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』
ジャン・ジュネ『女中たち』
アリス・ウォーカー『カラー・パープル』
チェーザレパヴェーゼ『美しい夏』
フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』
ジェフリー・ユージェニデスヘビトンボの季節に自殺した五人の姉妹』
ローラ・リップマン『あの日、少女たちは赤ん坊を殺した』
ボストン・テラン『音もなく少女は』
ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』

 

何故駆け足かって……瀬戸さんのラインナップが多すぎるからですが!(笑) イベント中では一部の本について詳細を説明しつつ、「女のホモソーシャル」「逆エンパワメント」「成熟しないシスターフッド」「女だからこそ百合に挟まるおじさんになりたいねじれた気持ち」などへの思い入れを語りました。真面目で王道に、シスターフッドやエンパワメントの話をしていく重要性もまだまだすっごくあるので、ここでは詳細に触れませんが、イベントだからこそできた話だなと思います。

 

瀬戸さんがリストアップしたもののうち、私は以下を既読の状態で臨みました。

高橋たか子『誘惑者』
桐野夏生『グロテスク』
今野緒雪マリア様がみてる いばらの森
松浦理英子ナチュラル・ウーマン』
嶋田双葉「冬服の姫」
キャサリン・ハリスン『キス』
シャーリィ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』

全然足りていない…!(笑)(そして「雪国」を通しで読んだことがないのを告白してしまった…)自分のあげた本の読み返しも含め、イベントまでの課題図書という形でたくさん本を読めたのはよかったです。特に直前に読んだ『グロテスク』『キス』は本当に面白かった…!イベント後もここのリストからちまちま読み崩していきたいと思います。

イベントでは最終的に「書く」「書かれる」ことだけでなく「読んで、紹介する」ことにもとても価値があるのではないかという話になりました(つまり昨年SNSで一世を風靡した「ジャン神」でいうと、おけパだけど……!)。「私っておけパかも」と言ってる女は結構いますが、「読んで、紹介する」ことを地道に続けるのって本当大変だと思います。瀬戸さんと話していると「私のおけパ力はまだ低い…!」とつくづく痛感しました。ちゃんと本を読んでいく2021年になるよう下半期も頑張ります。

今回瀬戸さんとは、イベントの打ち合わせでも十数時間しゃべり、イベント直前にも2時間くらいしゃべり、イベントで2時間しゃべり、終わった後も朝までしゃべり……で、なんか多分30時間くらいしゃべりました。イベント中に「この子、私のこと好きなのかなんなのか最初よくわからなかった、あげた本も読まないし……」とディスられていたのですが(もらった本を読まない私が悪すぎる)、流石に「今回は考えてることがわかってなんとなくエンディングを迎えた気がする」と言っていただきました。よかった!!!

 

せっかくなので(おけパムーブとして)最後にお知らせも。

瀬戸夏子さんの最新のお仕事としては、2000年以降に刊行された55の歌集でたどる最先端短歌ガイド、「はつなつみずうみ分光器」が近日正式発売になります。 

 

www.amazon.co.jp

 

また、河出書房新社より発売される小説アンソロジー「緊急事態下の物語」に、最新書き下ろし小説が載るとのこと。

www.amazon.co.jp

 

私は7月上旬に、FRaUのインタビュー連載をまとめた単著『沼で溺れてみたけれど』(講談社)が発売予定です。ラストスパート頑張ります!

 

f:id:zerokkuma1:20210530193029j:plain


 

 

セックスできないのは誰と誰か?ーー「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」(瀬戸夏子)メモ

予告された時から楽しみにしていた、「文藝」2021年春号掲載、瀬戸夏子「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」の感想をとりあえずメモ、模索段階でもいいのでまとめておこうと思って、ブログを開いた。

www.amazon.co.jp


本作は、主人公「わたし」の一人称で進み、主人公が文学サロンで出会った「ウェンディ」との、”戦争状態”を綴っていく形で進行する。

わたしたちはひとつの戦争状態に突入しはじめていた。それはなんらめずらしいものではなく、「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なものかを問う」、あの多数の亜流のひとつにたやすく合流する。


二人は、とある文学者の元愛人だとうたうマダムが主催する文学サロン界隈のパーティーで知り合い、一息に距離を詰める。「ウェンディ」は自分の本名を「わたし」に教えない。「わたし」が仮に呼んでいる名前が「ウェンディ」だ。バリの小説であり、ディズニーにアニメ映画化された児童文学『ピーター・パン』に出てくるあのウェンディ。ピーターパンに誘われてネヴァーランドへと旅立ち、ロスト・ボーイズたちを寝かしつける「みんなの母親」のウェンディである。本作は、バリの『ピーター・パン』の引用がふんだんに用いられ、そこに「わたし」のピーター・パン評、バリ評、ウェンディ評が添えられることで「ウェンディ」と「わたし」の関係もが肉付けされながら進行していく。

『ピーター・パン』だけでなく、本作には小説、日記、詩集、評論、作家のエピソード、あらゆる出典を持つ情報・テキストがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。『親密性』『日々の泡』から『川端康成三島由紀夫 往復書簡』『叶えられた祈り』まで。果たして読み手は、瀬戸夏子の小説を読んでいるのか、瀬戸夏子が引用している何かを読まされているのか、途中で混乱してくるくらいだ。その中には、瀬戸夏子が過去の文章などで言及し、好きであることを明言しているものも多い。「元ネタ」がこれだけ膨大にあり、ここまで明かしている作家というのも、珍しいような気がする(小説家としてではなく「歌人」のアイデンティティなのだろう、と考えると納得はする)


さらに言えば、瀬戸のアイデンティティ歌人であることに加え、瀬戸がボーイズラブ(商業ではなく「やおい」のほう)ーー無数のアマチュアの情念がパロディを集積し原作に書かれていない関係性を読み込んで「お約束」をがんじがらめに張り巡らせて発展してきた、異形のジャンルーーを長らく愛してきたとも、関係するかもしれない。そもそも、瀬戸夏子が書いているのは「一次創作」と言い切れるのだろうか?  形式的にはもちろん、この作品は「一次創作」であり、だから「文藝」に載っているだろう。しかし「ウェンディ」にしろ「わたし」にしろ、人となりの手がかりとなるのは、作中世界の現実のにおける彼女たちの行動ややりとりよりも、引用されたテキストと、そこに添えられた「わたし」の評のほうだ。語弊がないように言いたいけれど、「わたし」と「ウェンディ」はまるで、引用され評されている作品たちから生まれた二次創作キャラクターのようでもある。

「わたし」と「ウェンディ」には血肉があるし、彼女たちの”戦争状態”はーーそれこそインターネットでブログを書いたり、文学フリマで同人誌を売ったり、なんらかの創作物を他者と見せ合うコミュニティに所属している者にとっては特にーー肉から血飛沫が上がるような、凄惨なやりとりではある。それでも「わたし」と「ウェンディ」のキャラクターにはどこか浮遊感がある。それは、彼女たちが引用作品の二次創作キャラクターか、インターネットでブログを書いたり、文学フリマで同人誌を売ったり、なんらかの創作物を他者と見せ合うコミュニティに所属している者の「擬人化」であるからではないだろうか? 

無数の「わたし」と無数の「ウェンディ」がどこかで生まれ、死んでいる。「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なものかを問う」というが、その中には、セックスをした女たちもいるだろう。別に、作中の「わたし」と「ウェンディ」だって、セックスしてしまえばいいのでは?とすら思う。そこに障害があるとしたら、彼女たちのセクシュアリティの問題ではなく、彼女たちがそうしようと決めたからでしかない。しかし「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なものかを問う」なんていうのは、もうセックスしているのと一緒ではないだろうか? 彼女たちは「できない」のではなく表面的にはそれを「しない」だけだ。

手は出さない、わたしとウェンディはもちろん、わたしとピーターだってそうだ。手はださない。

「わたし」はこのように語っているが、この後、「わたし」はピーター(ゲイの友人)と関係したことが明かされる。

わたしはいつも疑問に思う、こういうタイプの人生を送った人間にたいして「結婚していたけれどほんとうは女/男が好きで」としたり顔で話すヘテロ男やヘテロ女のことを、時代背景もあるとはいえ、異性と結婚していた人もおおいのにそれを隠れ蓑にしていたというときの、隠れ蓑という根拠はどこにあるというのか。

ジャンルとしてのボーイズラブにおける男同士の恋愛は、それが強く制限される世界観を前提に「それを乗り越える」という形で描かれることが多い。本作の世界観、「わたし」の世界観において、少なくとも同性の肉体関係には「乗り越える」べきものはないように思う。では、この作品に、ジャンルとしてのボーイズラブの流儀を逆に導入するならば、引用文献の中で繰り返されているモチーフであり、黙示的に制限が置かれている者たちの間に流れているものを読み取るべきなのだと思う。それはつまり近親相姦であり、その二人とは、「ウェンディ」と彼女の兄であり、「わたし」と彼女の妹ではないかと感じられた。「ウェンディ」と「わたし」はほとんどセックスに近い精神的遊戯に興じ、彼女の兄とピーターには過去の肉体関係があり、彼女の兄と「わたし」の妹は交際の末心中する。関係性のミルフィーユの中で、「ウェンディ」と彼女の兄、「わたし」と彼女の妹の間だけがポッカリと空いている。

わたしはわたしの妹とウェンディの兄のセックスのことを考える。そこで消費されるコンドームのことを思う。その合間にピーターのはじめての性交渉、つまりピーターとピーターの兄とのあいだでおこなわれた乱暴な性交渉とのことを思い出す。

別に瀬戸夏子は近親相姦に「萌え」ているわけではなく、本人にとって重要なテーマだと思っているわけでもないとは思う。ただ、あらゆる関係性が織り重ねられ結びつけられ誰と誰の間にも縦横無尽に矢印を走らせることを彼女は楽しんでいて、ラベルがべたべたに貼り巡らされている渦中においては、それらはかえって全て滑稽で、つまりそのどれかに読み手が肩入れすることも滑稽になってしまう。そんなときに読み手は、もはや行間を読み込みまくって皮肉にも、セックスの矢印が書き込まれなかった近親相姦に「萌える」しかないような境地になる、というのがしっくり来るかもしれない。

 

それは、私たちだけのものーー『持続可能な魂の利用』(松田青子)書評

持続可能な魂の利用

《あの人は消えてなんかいない/あなたの世界からいなくなっただけ》

 現代社会が内包するグロテスクさを、その中でもがく女性たちに寄り添う姿勢を貫きながら、コミカルかつシニカルに描いてきた作家・松田青子。「普通」「当たり前」「みんな」「そうすべき」を解体する彼女の文章には、いつも励まされ、笑わされ、胸の奥のつかえを言い当てられて、優しく抱きしめられるような気持ちをもたらされてきたのだけど、最新作にして初長編である『持続可能な魂の利用』は、ページをめくるや否や、快哉を叫びたくなる作品だった。エピグラフが「少女革命ウテナ」! これは女たちの「革命」の物語であるという高らかな宣言が、そこにあった。

 主人公は、日本で生まれ育った30代女性の敬子。他の大多数の女性と同じように、この社会の「普通」「当たり前」「みんな」に馴染んで、学校を出て、恋人を作り、派遣社員として働いていた。そんな彼女が、同僚男性から受けたハラスメントを告発した結果、周囲から「交際がうまくいかなかった腹いせに嘘の告発をした」というレッテルを貼られ、自主退職に追い込まれてしまう。自分の人生がいかに、「おじさん」から身を守るための無意識の努力の上に成り立っていたかを痛感した敬子は、少女たちが「おじさん」から見えなくなり自分たちだけで暮らす世界を夢想し始める。と同時に、現実世界で、「おじさん」の一人にプロデュースされたアイドルグループのセンター、「おじさん」の願望に忠実に振る舞う傀儡に見えながらも、決して侵されない輝きを放つ少女・××に魅入られ、傾倒していく。「おじさん」が支配する現実社会で、敬子と、少女たち、そしてかつて少女たちだった者たちが選択した「革命」とは。

 本書の白眉は、時事的なトピックも盛り込みながら徹底的に描写された、女の生きづらさのディテールだ。韓国から上陸し、日本でもベストセラーになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』は、33歳の女性キム・ジヨンから、彼女、彼女の母、祖母それぞれの半生を精神科医が聞き取るというスタイルで、韓国における「普通の女性」の生きづらさ、それを生み出す韓国社会のいびつさを炙り出していた。一方の本作は、敬子だけでなく、同じ時代を生きるいくつかの立場の「普通の女性」が複数人登場し、それぞれの立場から生きづらさを語る。日本社会におけるいくつもの「あるある」が詰まっていて首がもげるかと思ったけれど、私にとって一番胸にきたのが、序盤で敬子が、一人暮らしの部屋に鍵をかけずに暮らしていると語った後輩男性を回想する場面だ。

《そうなんだと軽い笑い話にして済ませたが、心の中では衝撃を受けていた。敬子の目の前にある、日常を恐ろしいと感じていない健やかな心に、そんな自分が情けなかったが、敬子は少し傷ついた。》

 ちょっとしたことじゃん、と思う人もいるかもしれない。都会では性別にかかわらず不安だから、自分はきっちり鍵を閉めているよという男性の方が多数派だろうとも思う。でも間違いなく、属性ゆえに気をつけなければならない度合いが増す「ちょっとしたこと」があって、しかもそれが無数にあって、その無数の「ちょっとしたこと」の積み重ねをしなければならない自分を自覚することには、とてつもない惨めさ――「魂」を削られる感覚があるのだ。

《三十年以上生きてきた敬子はもう自分の魂は、どれだけ満タンにチャージしても、残り『82%』ぐらいなんじゃないかと感じる。さっきの××たちのライブでだいぶ充電されたけれど、それでももう『100%』には戻れない。一体人生のどの段階まで、敬子の充電は『100%』だったのか。》

「ちょっとしたこと」に抗うのには、しかし「ちょっとしたこと」に従う以上のカロリーが必要だ。すっかり疲れ切り、これからも魂をすり減らしていくかに思えた敬子が、彼女のいる地獄に立ち向かおうと奮い立ったのは、年齢も境遇も違う、顔見知りですらない××がステージで輝く姿があったからだった。××が敬子に与えたものは一体何だったのだろう。恋、愛、憧憬、信仰。そのどれでもあると思うし、どの言葉にも収まらないようにも思う。いずれにしても、そこには敬子の「魂」の削れたぶんを充填するようなエネルギーがあって、あるいは、敬子が「魂」の残りを使い果たしたってかまわないと思うような、「賭けたさ」があった。自分のためだけではなく、自分の魂を「賭けたい」と思える誰かや未来があってこそ、人は「革命」を起こせるのだ。

 アニメ「少女革命ウテナ」は、子供の頃に救ってくれた王子様に憧れ、王子様を目指す少女・天上ウテナが、学園で“薔薇の花嫁”という役割を背負わされた少女・アンシーと知り合い、彼女を救うために、生徒たちが行う決闘ゲームに身を投じるところから始まる物語だ。松田が本作第一部のエピグラフに掲げた言葉は、「ウテナ」最終回に出てくる。それまではウテナに救われる側であり、そのウテナの気持ちすら理解できないほどに、個としての主体性を失い、自分に課せられた役割に殉じていたアンシーが、最後の最後に自分から、役割を放棄することを選んで、発したものだ。彼女がその言葉に至るまでに何があったかはぜひ同作を視聴してほしいが、彼女がその言葉を発することができたのは、アンシーがウテナに「賭けたい」と思えたからだった。それはウテナが、アンシーに「賭けて」くれたからこそなのだ。敬子は、ウテナでありアンシーでもある。

『持続可能な魂の利用』の表紙には、英題が添えられている。

“The Sustainable Use of Our Souls”

「魂」の持ち主は、「私」ではなく「私たち」だ。敬子だけでなく、私たち一人ひとりもまたウテナでありアンシーである。持続的に利用されるべき、誰かに消費されるべきではない「魂」。それを賭けるか賭けないかは、いつだって私たちの思いのままなのだ。

 

※「群像」2020年8月号に掲載されたものを、確認をとった上で転載しました。

 

持続可能な魂の利用

持続可能な魂の利用

 

 

滑稽で愚かな彼らーーミュージカル「スリル・ミー」感想

4月に、ミュージカル「スリル・ミー」を3度鑑賞した。

 

horipro-stage.jp

 

「スリル・ミー」は、2003年にNYのオフブロードウェイで初上演された二人芝居のミュージカルで、日本には2011年に初上陸した。1924年アメリカで発生した、ニーチェの超人思想信奉者であり、同性愛関係にあった青年二人による誘拐殺人事件「レオナルドとローブ事件」を下敷きにしている。刑務所に37年服役している<私>が、仮釈放審判の最中に、事件の動機を問われて、<彼>との思い出を語り出すという筋書きや楽曲は、オリジナル版でも、栗山民也が手掛けた日本版(その前に上演されていた韓国版を踏襲している)でも共通だ。

 

ただ、オリジナル版では、キャストにリチャード・ネイサンと名前がついているのに対し、日本版(及び韓国語版)では、キャストの名前はほぼ出てこず、<私>と<彼>として抽象化されている。固有名詞が捨象されたことによってさらに純化された男同士の愛憎劇は、日本でも熱狂的な人気を得て、既に5度以上の再演が行われている。

私は、ミュージカル好きの友人から2013年の再演の時にその存在を教えてもらった。あまりミュージカルを観てきた人間ではなかったが、大阪から遠征するほど面白い作品だというのと、男同士の恋愛であるというので関心を持ち、最初に見たのが2014年の銀河劇場だったと記憶している。一度観たらすっかりハマってしまった。同じセリフ・演出なのに、キャスト同士のケミストリーによって<私>と<彼>の印象や関係性がガラリと変わるのがたまらなくて、2018年の再演からは、全てのペアのチケットを取るようにしており、今回も、田代万里生&新納慎也ペア、成河&福士誠治ペア、松岡広大山崎大輝ペアの3ペア全てを一度ずつ鑑賞した次第だ。

 

さて、初鑑賞時には感想文や二次創作を読み漁り、その後の鑑賞においても、<私>と<彼>の関係性に胸が締め付けられるような切なさと萌えを感じながら堪能してきたのだが、今年はちょっと違う視点が生まれてきた。これまではスリル・ミーを「悲劇」として観てきたのだが、これは「喜劇」ではないか?と思えてきたのだ。私よりはるかに多くの鑑賞をこなして考察をしているスリル・ミーガチ勢(全通とかしている方も多いので…)の中には、もしかしたらこの見方を間違っているとか、不快に感じるとか思う人もいるかもしれない。また、がんがんネタバレもしていくので、心の広い方だけ読み進めてほしい。

 

と、本題に入る前に、2月に観た韓国映画KCIA 南山の部長たち」の話を挟む。

klockworx-asia.com

 

これは、男二人しか出てこないミュージカルではなく、実在の人間をモデルにした固有名詞(一応別名になっているが)をバリバリ所有する男たちが出てくる韓国ノワールである。舞台は1970年代の韓国。15年以上にわたる長期政権を敷き、「独裁者」との批判的評価を受けていた朴正煕(パク・チョンヒ)が、腹心の部下であるKCIA大韓民国中央情報部)のトップ・金載圭(キム・ジェギュ)に殺された事件のノンフィクションを題材としている。主人公は、金載圭をモデルにしたキム・ギュピョン。演じるのはイ・ビョンホンだ。パク大統領のあらゆる命令に従い、時には朋友すら手にかけてきた彼が、いかにして、大統領を殺そうと思い至ったのかを、事件の手前40日間を描くことで映し出す映画である。

韓国映画の常連を張る、錚々たる俳優によって展開される「暗殺事件」のストーリーは、国際社会の中で困難な立場に立たされている国家の緊迫、抑圧的な政情に不満を抱えた大衆の空気感、それを弾圧することに徹する大統領に対し絶望を重ねていくキム・ギュピョンの苦渋に満ちた表情、で彩られている。イ・ビョンホンのキャリアの真骨頂と言える演技は本当に素晴らしく、観ている間、こちらも手に汗を握らされた。

しかし、である。「KCIA 南山の部長たち」が真剣に作られている映画であればあるほど、そして、イ・ビョンホンが暗殺者を真面目に演じれば演じるほど、「あれ?」と思う瞬間があった。というのも、「情報部部長が、民主化への機運が高まり不満が募っている国家状況の中で、長期政権を敷いている大統領を殺した」という時事的な側面を抜きにしてこの事件を見たとき、要は「男だらけのボーイズクラブの中で、だんだん上司が自分を鬱陶しく思い出したことに気づき、焦って色々歓心を買おうとするも裏目に出て、腹心だけの飲み会に自分だけ呼ばれなかったことで感情が限界に達して、キレながら殺す」男の物語なのである。時代背景や個別の人物の背景を除外して物語をまなざすとーーつまり、引いていたカメラを、もっとアップにして物語を見ると、と言えるかもしれないーーこれは「悲劇」なのではなく「喜劇」なのではないか?と我に返りそうなタイミングが多々あった。これは決して私のうがった見方ではなく、おそらく監督や俳優も、念頭に置いていたことではないかと思う。真面目に演じられれば演じるほど、国家の大義が語られれば語られるほど、画面上で描かれている「会合」は、どこまでも陳腐で矮小で滑稽なものに思えた。本作を監督したウ・ミンホが、やはりイ・ビョンホンを主人公に据えたヒット作「インサイダーズ/内部者たち」にて、汚職政治家たちが夜な夜な行う全裸飲み会を、極めてグロテスクに描いていたことからしても、ホモソーシャル/ボーイズクラブの滑稽さを炙り出すことに、とても意識的な作品だと感じた。総体としての悲劇が、真面目に撮られれば撮られるほど、細部の滑稽さが際立っていた。残念ながら一度しか鑑賞できなかったが、もし二回目を観ていたら、自分が呼ばれなかった飲み会の会場の押し入れにこっそり忍び込んで、肩を震わせながら会話を盗聴しているイ・ビョンホン(この盗聴こそが、まさに彼に暗殺を決意させる最後の後押しになるのだが)に対して、ちょっと笑っていた可能性すらある。

 

翻って「スリル・ミー」である。私はこの作品をずっと、というか2019年の鑑賞までは、究極的に純化されてのっぴきならなくなってしまった業の深い、そこにしかたどり着けなかった愛の物語だと捉えていた。つまり、真面目も大真面目の大悲劇、ということだ。「裕福な家庭に生まれながらも、親からの苛烈な教育によって承認をこじらせ、ニーチェの思想に傾倒した結果、『超人』を希求して犯罪を犯す<彼>と、同性愛者であることを隠しながら暮らし、好きになった相手の欲望に限界まで付き合い、彼を凌駕する『超人』となって彼を屈服させるために、あえて警察に捕まるための仕掛けを施す<私>」の話である。私は、才能を巡って嫉妬しあい、だまくらかしあい、素直になれない同性同士の関係に激しく萌える気質なのもあり、初見からすっかりこのストーリーラインに完敗してしまい、<私>はいつから彼の裏をかこうとしていたのか、果たしてその感情のどこまでが愛といえるのか、もしかしたらどこからかは憎しみが混ざっているのではないか、ということを延々考えるのに夢中になっていた。実際、ペアごとにその辺りの「解釈」が細かく練られているな、と思わせる演出になっており、それはとても楽しいことだったのだ。本当に、素晴らしいミュージカルだと思う。

ただ、今年に限っては、こうした「解釈」を行うことに、あまり関心がわかなかった。「KCIA」のせいだと思う。むしろこれまでは全くそこに思いいたってなかったのだが、彼らの「滑稽さ」が気になってきた。だって、冷静に考えたら、ニーチェは「超人になるために、犯罪をしろ」とは一言も言っていない。これは舞台の前半では<私>も、何度も<彼>に言っていることだ(「火をつけろって、ニーチェは何章で言っているんだ?」)。そして、セックスして欲しくてたまらない<私>に対して、あまり乗り気ではない<彼>が、犯罪の幇助を交換条件とした契約書を持ち出すというのも、かなりおかしい(これで二人は完全な絆で結ばれた もう戻れない二人は 血と血で誓った」)。おかしいと、<私>も歌いながら主張するが、<彼>の勢いは止められないし、自分の欲望にも屈してしまう(「気が狂いそうだ もう苦しめないで 今度は抱きしめて」)。そうして<彼>とともに誘拐殺人を犯してしまう上に、<私>のほうは、(<彼>と観客を出し抜く形で)「彼を凌駕する『超人』になる」という裏のゲームを始めだす。二人は刑務所に終身刑+99年収監されることとなるが、<私>は幸せだ。当初、彼の『超人』思想を馬鹿にしていたはずの<私>はどこにもいない。大真面目に「永遠に一緒にいられるね」と歌い上げる(99年 勝ったのは僕だ 勝負の終わり いつまでも 僕のものだ 99年)。そうして回想は終わり、<彼>は舞台から消える。裁判官たちへの釈明を終えた<私>は、「こんな奴を刑務所に収監していても税金の無駄である」という理由により、釈放される。「男同士の燃え上がる愛」への萌えを傍らに置いて筋書きを検討すると、なんだかとっても愚かしい話ではないか?(もちろん、愚かさというのが愛にはつきものなのを差し引いても)

 

この「愚かしさ」について、脚本家たちは意識的ではないかと、特に感じた箇所がある。ラストの盛り上がりである「99年」が歌われる手前の、<彼>のセリフだ。自分たちの死刑を回避し終身刑を勝ち取ってくれた人権派弁護士の手腕について、法学部出身の二人が、感動気味に話す場面である。

<彼>「 いいか、本当は俺がなりたいのは、まさに彼のような弁護士だ」

完全犯罪を志向して子供を誘拐し殺人した人間、そして終身刑が決まり一切の将来計画が絶たれたはずの土壇場で発する言葉として、これ以上滑稽なものはないだろう。この台詞は、思っていたより重要なのではないか?と今回私は思った。というのも、<私>は、この彼の言葉に「そうだったんだねえ」と頷いてから、隠された目論見を明かすからである。つまり<私>は彼の滑稽さをしっかりと受け止めており、それでも彼を愛することを止めずに、自分も愚かさに殉じたのだ、ということを今回ひしひし感じたのだった。そして、極めて真剣に二人の愛憎を悲劇に純化させながらも、セリフや演出の片隅に滑稽さと愚かさを滲ませることには、その最小単位のボーイズクラブ/ホモソーシャルへの批判の眼差しがあると、理解できた。


仮釈放の審判で、<私>は被害者への反省を口にしている。私は2019年まではそれを彼との愛に殉じた結果、すでに狂いきっている<私>の嘘だと思っていたのだが、今回は、もしかしたら本心の反省と捉えることもできるかもしれないなと考え直した。実在の二人の青年が、『超人』思想に囚われず、犯罪を重ねるスリルに夢中にならず、実在の未来あった少年を殺すことがなく、地道に学問を修めて弁護士資格を取っていれば、どんなによかっただろう。それは喜劇でも悲劇でもなく、ミュージカルにならない。結局起きたことを物語にしている以上「綺麗事」ではあるかもしれないが、それは本作がとても真摯な物語である証拠なのだと、改めて思った。

 

 

f:id:zerokkuma1:20210425213730j:plain

 

 【追記】

本ブログを読んだ友人から、「成河さんは特に、本作を喜劇的に捉えている気がする」とコメントをもらった。確かにパンフレットのインタビューにおけるコメントなどを見ると、そのような開かれた解釈に意識的で面白いなと思った。成河さんの<私>を観たからこそ、生まれた感想だったかもしれない。