It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

ドアのありかーーペク・スリン『夏のヴィラ』

・この記事は、ふくろうさんが主催している「海外文学 Advent Calendar 2022」12月24日のエントリーです。

adventar.org

※本エントリは希死念慮自死にまつわるエピソードから始まります。ご注意ください。

 

 

 

あらゆることが起き、あらゆることに倦んで、いくつかのことがどうでもよくなった2022年だった。

 

たとえば、希死念慮が現実化しそうになった一瞬があった。そのときわたしはイギリスはロンドンにある学生寮の五階で暮らしており、部屋には大人が六、七人手を繋いで横に並んでもまとめて飛び降りられそうなほど大きな窓辺があった。といっても、それは掃き出し窓のような大きな窓で構成されているわけではない。身をかがめれば女子供は抜けられるかなと思われるほどのサイズの窓が並べられ、さらに格子もついていたので、実質人が飛び降りることは難しい。希死念慮が現実化しそうになったなどとえらそうに言ってみたが、この格子って外せるのかなと興味がわいて、ぐいぐい引っ張ってみたがうんともすんともしなかったので、そのままベッドに潜って寝ただけである。とくに貯金を貯めてもいないのに不動産サイトを眺めて、都内駅近に2LDKの築浅マンション買いたいけど無理だなあと思ってそのまま忘れた、に近い。

そんなこと、今までも何度かあったように思うし、珍しいことでもないかもしれない。それでもわたしがなぜ今回のことをよく覚えているかというと、その翌朝に”Sad news about a Town Hall resident"というメールが寮のマネジメントチームから届いたからだ。同じ晩に実際に自死してしまった学生が、同じ寮にいたのだった。方法は知らない。たぶん窓からではないだろう。誰かも知らない。エレベーターや最寄りのスーパーマーケットで、すれ違いくらいはしたかもしれない。六月、プラチナジュビリーのお祭り騒ぎの最中のことだった。わたしがとらなかった選択肢を、とった人がいたのだなあと思ったら、わたしはかえってどうでもよくなってしまった。論文とか貯金残高とか全て忘れて毎週ヨーロッパ旅行を入れるようにしたら、もう自分の部屋に窓があるということすら思い出さなくなった。わたしは単に外に出たかっただけだったのかもしれない。ただ、ドアから足で出ればよかったのだった。


といっても、常に出られるわけではないし、ドアのありかがどうしても見当たらないこともある。そういうときの文学の効用にも、確実に助けられた一年だったと思う。海外文学のAdventCalenderに参加しておいてあれだが、日本を出たくて出たくせにイギリスにいたらいたでイギリスを出たくなるへそ曲がりのため、正直、留学中はむしろ海外文学を読まなかった。長く海外移住を続けている人や、これからイギリスに永住してやると決意している人と知り合う機会は多かったが、みんな英語圏の小説を意識的に読んでいた。日本文学を薦めても「英語版が出たら読むね」と言われた。本当に頭が下がるなと思ったが、わたしはというと、英語の小説をプライベートで一冊も読まなかった("A Room of One's Own"は買ったが、一度も開いていない)。英語論文に疲れると、吉本ばなな『キッチン』を写経していたほどだ。なんなら『白河夜船』も写経した。わたしって本当には言語習得に興味ないのかもしれない……と、改めて痛感したほどだ(もちろん興味はあるから留学したのだ。しかし、外国語を第一言語のように流暢に操る人は息を吸うように言語学習を行える環境をととのえており、語学と向き合うパーソナリティの構造が異なると感じた)。

日本の女性作家の書くものにはfeeling of alienationを感じる、と言ったのは指導教員のLだ。Lは日本のアニメや漫画が好きで、研究室には初音ミクのフィギュアや「千と千尋の神隠し」のポスターを飾っている。小説については、Sayaka Murataの"Convinience Store Woman"にハマり、今はKikuko TsumuraやYuko Tsushimaを読んでいると言っていた。この日も、カバンからYuko Tsushimaの"Woman Running in the Mountains"を取り出してきた。

alienationってなんだっけ……ああalien、よそ者、疎外感。レクチャーや論文指導を通じて、彼女のジェンダーにまつわるalienationを共有してもらっていた経緯から、彼女がそれを日本文学を通じて和らげることができているなら嬉しいなと思った。一方で、それって別に日本の女性作家に特有のものというわけでもないだろうなとも思った。日本のサブカルチャーをリスペクトし、日本の歌謡曲のレコードを集めているというLにとって、ある種のエキゾチシズムも含めて、解放感を感じられる「ドア」が日本の、あるラインで翻訳されている女性作家の小説だったのだろう。それでも、何となく耳に残った。

そのあと読んで、わたしが抱いているfeeling of alienationに馴染むと思った一冊の短編集があった。ペク・スリン『夏のヴィラ』(書肆侃侃房)だ。2019年に書肆侃侃房から刊行された短編集『惨憺たる光』がとても素晴らしく、この『夏のヴィラ』も今年4月に発売と同時にAmazon Globalでわざわざ紙の単行本を購入していたのだが、しばらく積読してしまっていた。読む気になったのは、部屋を出てヨーロッパを飛び回って太陽の光を浴びてあらゆることがどうでもよくなってからだったのだが、ドアはここにもあったのだと思わせてくれる短編集だった。

 

どの短編も素晴らしいが、一作選ぶならやはり「夏のヴィラ」だ。かつてドイツに滞在していた韓国人の女性・ジュアが、長年親交をあたためていたドイツ人夫婦の妻につづる手紙という体裁をとる短編だ。

明け方の駅の風景をご存知でしょう?

ーー夏のヴィラ

まだ独身でバックパック旅行の最中にベレナとハンスの夫婦と知り合ったジュアが、かつてベルリン東駅で彼らと別れたときの情景を振り返るところから始まる彼女の手紙は、ジュアがドイツ政治史を専攻していたジホと知り合い彼の留学に伴って再びベルリンに住んだ頃の記憶、韓国に戻ってからジホとの関係が変質していく過程について告白しながら、ベレナたちに誘われて参加したカンボジアシェムリアップへの旅行、シェムリアップで起きたハンスとジホの、言い争いの一件へと向かっていく。

ジホはそう言いました。まるで私たちが、地球上のいかなる国の悲劇にも関わったことがない国家の一員であるかのように。ーー夏のヴィラ

ペク・スリンの作品にfeeling of alienationを感じる、というのは、当たり前すぎるといえば当たり前のことではある。彼女の小説には、居場所を見つけきれずに欠乏感を抱えている人や、実際に外国や異郷に在住する登場人物が数多く出てくる。『夏のヴィラ』の一編目に収録された「時間の軌跡」では、三十手前で会社を辞めてパリの語学学校に通っている韓国人女性が、二編目の「ひそやかな事件」では、今後起きる再開発によって補償金を得られるだろうという家族の予想によりソウルのタルトンネ(貧民街)に引っ越すことになった少女が、物語の語り手となり、異邦人の視点から、その土地での暮らしと人間関係を述懐する。

両親に口止めされていたため再開発目当てで塩峠に引っ越してきたことは秘密だった。季節が変わっても、私たちの待ちわびる再開発の知らせは聞こえてこなかった。でも、ちょっとやそっとのことでは動じない性格の父と母は、相変わらず毎朝のように路地を掃きつづけた。夜のあいだに猫がゴミ袋を漁るせいで、明け方の路地にはゴミ袋が散乱していた。猫を見かけるたび、赤ん坊の泣き声のような猫の鳴き声がどこからともなく聞こえてくるたび、なんて不吉な動物なの、と母は言った。そう言うとき、母はうんと顔をしかめて身震いしていてから、私もつられて身震いするのだった。ーーひそやかな事件

『夏のヴィラ』には8編の短編が収録されているが、紹介文によれば8編あわせて5つの文学賞を受賞しているのだという。プロフィールの一見した華々しさに対して、小説全体も文章の一節一節も、とても繊細に層を重ねた細工菓子のようだ。派手な事件は起きない。しかし語り手個人個人の人生観にとっての決定打がうたれた瞬間を、ささやかだが確実な描写の数々によってすくいとる。そうしてある瞬間ぱっと視界がひらけ、登場人物たちの景色は変わる。読み手も、目の前でわずかに開いた自分のドアに気づく。それこそ、「ひそやかな事件」というタイトルは、どの短編にも合うし、彼女の小説を読む体験そのものを言い表しているように感じる(ちなみに「ひそやかな事件」は韓国文学をメインに刊行する出版社クオンの「韓国文学ショートショートきむふなセレクション」から、『静かな事件』としても単体で刊行されている。こちらには韓国語の収録もあるので、韓国語の勉強をしている人などは『静かな事件』を買ってもいいだろう)。

場所を巡るalienationがわかりやすいが、読む中で感じ入るのが、ペク・スリンが、時間の経過による人間の変化を丁寧に暴き出す作家であることだ。一度近づいた心が、再び離れるまでの長い長い過程を、彼女は短編という形式の中に組み上げる。本質的には人間にあまり期待していないように、わたしは感じる。でも、それでもまた掠めあうかもしれない、その掠めあいの可能性を排除しない部分があって、だから絶望しきってはいないのだろう。

どこにも未来がないなら自分の国で暮らしたほうがましじゃない? 一生異邦人として生きるのは寂しいし。私のことばに、短い沈黙を挟んでから彼が言う。自分の国で異邦人として生きるほうがよっぽど寂しいよ。ーー夏の正午(『惨憺たる光』収録)

あらゆることに倦みいくつかのことがどうでもよくなったけれど、自分にとってどうでもよくないことにも気づいた一年でもあった。来年、あるいは五年後はまた違う状況にあるかもしれない。ドアはたくさんあり、自分にとって見えるドア、見えないドアはめまぐるしく変わる。

みなさん、良いお年を。

 

 

余談。これは2月に出す新刊エッセイ集に書いたエピソードなのだが、わたしが子供の頃、母親がある事情により、わたしの部屋の窓からしか帰宅しない時期があった。あの頃、そうしていた母もそうだとしても帰ってくることを喜んでいたわたしも、やはりおかしかったと思う。人間は出来るだけドアから出入りしたほうがいいだろう。このエントリを面白く読んでくれた方はエッセイ集も読んでいただけたらうれしい。そのうち告知します。