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飲みすぎないように文章を書く

「ルックバック」感想(あくまで自分のための)

※この記事では藤本タツキ「ルックバック」のネタバレ、及び関連する2019年7月18日の京都アニメーション事件の話に触れています。

 

2019年7月18日木曜日、東京はじっとり蒸し暑かった。

朝から薄暗い曇り空で、湿気がからだにまとわりついてくるのがたまらなく嫌だった。私の頭は、映画ナタリーの告知記事を見てから楽しみにしていた、「ダンケルク」特別上映チケットを手に入れられなかった悲しみで占められていた。池袋で7月19日にオープンするグランドシネマサンシャインの前夜祭として上映がアナウンスされ、最新のフルサイズI-MAXシアターのことが、映画好きの間で話題になっていた。まあ、どうせ仕事あったからしょうがない。早く帰って、締め切りが近いのに後回しにしていた、あの骨の折れる原稿にいよいよ手をつけよう。

その週はいくつか、人間関係における無為な振る舞いで消耗しており、それも憂鬱だった。例えば、過去に決裂して以来会っていない友達に、LINEを送るとか。既読にはならなかった。実際に会いたいかというよりは、ある種の痛みがまだ残存しているかを確かめる試みで、送ってしまえば満足してしまった。それでもその朝も、まだやっぱり未読だなと確認して、いっそこのLINEルームを毎日の買い物メモ送信場にしてしまおうかな、なんて考えていた。

いつもどおり、定時の10時をめがけて――めがけるのだがミルクティースタンドに寄ってだいたい10時半になる、でもフレックスタイム制なので一応OKーー出社し、パソコンをひらいて仕事を始めようとしたら、友人から「京アニ爆発って何?」というLINEが来ていた。なにか、「ネット炎上」のたぐいの話だと思った。文面の軽さからして、友人もそう思っていたのだろう。Twitterで調べて、かつて自分が「聖地巡礼」したことのある宇治のスタジオから黒煙が出ている写真を見ても、なにか、キッチンから火が出たとかそういう話だろうと思った。でも、違った。

 

そこからはずっと、腹の底が冷えていて、ダンケルクのことも、原稿のことも、未読のLINEルームのことも、頭から抜けた。夕方になってくると、とにかく報道から気をそらしたくなった。私の会社はニュースアプリを運営しているため、その日は私含め誰もが、そのニュースに向き合いきりだった。最新情報から遮断されるべく、ローカルで取引先との契約書の整理作業をしていたら、22時半を過ぎていた。そのオフィスビルで働くようになって3ヶ月だったのだが、私はほとんどオフィスで残業したことがなかったので、22時になると正面出口が閉まるのをその日初めて知った。

よくよく探すと、ビルのいろいろな側面に、複数のドアがあった。でも、どのドアが開くかもわからなくて、実際セキュリティカードがないと開かない設計のようだった。十数分さまよいやっと開くドアを見つけて、外に出たら、雨が降っていた。濡れながら駅に向かい電車にのって、地元で降りたら雨はいよいよ激しくなった。それでも傘を買うのは嫌で、ずぶ濡れになって帰った。

 

2021年7月18日が終わった深夜、藤本タツキ「ルックバック」を読んだ。

 

読み切りで143ページって、何と驚きつつ、すぐ読んだ。

二人の女子小学生が漫画を通じて知り合い、共同名義でデビューし、しかしお互いの夢の違いで、離れてしまう。何かを目指す者の努力の苦しみ、異なる才能への嫉妬と憧れ、それでも存在する狂おしいほどの楽しさ、などが絶妙な筆致で表現されており、ページを追う手が止まらなかった。しかし、青春の別離と再会が描かれるのかと思っていたら、物語は、読み手の現実の記憶に脳裏から引き摺り出す形で、残酷な展開を迎えた。茫然、としか言いようのない読後感だった。

 

読み終わってすぐにツイートした。同じく読み終わった人たちが開催していたスペースに参加した。「Look Back in Anger」や「ワンス・アポン・ア・イン・ハリウッド」など、作中に散りばめられた要素、その他映画へのオマージュ、そして藤本タツキの過去作品いくつかとの関連、などなどが興奮気味に語られており、それを聞きながら、何度か「ルックバック」を読み返した。

1時を過ぎる頃から既読の人はさらに増えていき、TLが「すごい」「こんなものを描かれたらクリエイターは心折れるでしょ」「漫画家じゃなくてよかった」などの感想で溢れていた。「これはあの事件に対する祈りだ」というツイートも見かけた。私もそう思ったし、多分今朝もそう思っているのだが、あまり美しいものとして捉えることには恐れがあった。それは「文学とは希望や喜びを与えるもの」という、最近取り沙汰されたあの言葉の世界観に、通じてしまうように思った。

もちろん、藤本タツキは、(本作中でもパッケージが描かれている映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でタランティーノは、1969年のシャロンテート殺人事件についてその選択をしたが)起きた現実がフィクションで救済される、という結末にはしなかった。とはいえ、残された者を救うものとしての、フィクションへの信仰が描かれていることは間違いない。そこに私たちの心が、祈りーーそこには未来への希望が含まれているーーを感じてしまうのも自然だ。そしてその祈りが「早過ぎる」という批判はあるだろうし、それが極めて商業的な媒体で、卓越したエモーショナルな表現で行われたことに嫌悪感を持った人もいるだろう。批判や嫌悪感以上に、いまだ受け止め切れないタイミングの人も。本当はもっと注意書きが必要な作品かもしれない。

それ以上に、なんだかどうしてもすわりの悪い気持ちがあった。ずっと胃が苦しくて、眠れたのは3時ごろだった。落ちきらないまぶたが鬱陶しかったが、自分が2021年7月18日の深夜に書いた日記を読み返した。その日の自分の気持ちと行動が順を追って書きつけられていた。その中には、現実を受け止め切れない人たちが嘆きから「とにかく支援を」という実際的なツイートに移行していった様子と、その早さ自体に辟易してしまう気持ちについての記述があった。あの日の私は、何もしようがない状態で、何かせざるを得ない気持ちをどうにかしないと心が折れそうになる、私も含めた人間の脆さ、「意味がある」世界の脆さに、押し潰されていた。

暴力で人が突然死ぬことや、愛すべきクリエーターが危害を加えられることや、自分も他人事ではないという恐怖を感じることや、なにか素晴らしいものが失われることや、人々がそれに反射的にヒステリー的にリアクションをすることや、そういう具体的なことではなくて、自分なり世界なりの今この瞬間に「意味がある」ことの脆さ、がこわかった。それはいつ「理不尽に命を奪われてしまうかもしれない」っていう話と、地続きであり、それがトリガーになってはいるんだけど、それそのものではない。

私たちが結局「こうしてれば社会がよくなる」「こうしてれば幸せになる」という客観的な因果のもとに生きられることは決してなくて、当然「こうしてれば全員がお互いを傷つけずに生きられる」ということもなくて、全部「こうしてれば社会が良くなる(かも)」「こうしてれば幸せになれる(かも)」「こうしてれば全員がお互いを傷つけずに生きられる(かも)」という、ただの「共同幻想」のなかで生きているに過ぎないんだ、って、これまでに起きたどんな災害や事件のときよりも、なぜだか鋭く思ってしまったのだった。

フィクションというのは、私たちが時折感じてしまう「意味のなさ」に対抗するための試みだと思っている。この「意味のなさ」は、(本人の認知や感情含めて)現実世界からやってくるものだから、すべてのフィクションは、なんらかの形で現実と結びついている。表現において、それが明らかか暗黙かの違いでしかない。フィクションは、徹頭徹尾「心動かされている/動かされるだろう自分たちのため」のものだ。どこかで、元の現実世界の何かを捨象し、変質させ、置き去りにしているだろう。

藤本タツキの漫画はエンターテイメントで、無料でジャンプラに公開されて、読者を驚嘆させる仕掛けに満ちていたが、エゴイスティックでグロテスクなことには間違いない。読んだ私のこの気持ちも、エゴイスティックでグロテスクだ。祈りというよりも、むしろ、私たちに刻まれた呪いを再確認させるような作品ではなかっただろうか。私たちは現実から逃げられない。無力感はいつでもふと訪れるし、無力感以上の不幸も、いつだって訪れる。でもそんなこと毎日考えていたら気が狂うから、フィクションに触れる、作る、現実を編集する。それもまた、正気じゃないよやっぱり。

それでも、「ルックバック」は、描かれるべき物語だっただろう。向いている方向は、当事者でもなく、全人類でもない。それはすべてのフィクションにとってそうなのだが。