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新時代の福音ーー「推し、燃ゆ」(宇佐見りん)書評

推し、燃ゆ

「推す」という動詞から「推し」という名詞が派生して、20年も経っていないそうだ。お小遣いをつぎ込んで漫画を買い、始発に乗って声優イベントに参加し、人生の大半をオタクとして過ごしてきた平成生まれとしては、短いような長いような、不思議な気持ちである。

「贔屓」「担当」など、界隈ごとに応援対象を指す言葉はいろいろあるが、「推し」ほど、ジャンルを越えた普遍性と霊性を得た言葉は初めてだろう。オタク活動を「宗教」に喩える向きも強まったように思う。『前田敦子はキリストを超えた』なんて新書が出たときには、オマージュだとしても流石に言い過ぎでは……と思ったものだが、対象の活動に金銭を投じるだけでなく、その挙動を“解釈”し、自発的な“布教”で推しの魅力を広め、C Dやグッズを並べて“祭壇”を作り、同志の振る舞い・身嗜み・品性をあれやこれやと“審問“する私たちの様子を、違う時代の人々が見たら、何らかの宗教を奉る集団なのだと勘違いしてもおかしくない。

そんな私たちのいびつな実存を、あまりにも的確にすくいとった小説が世に生まれた。デビュー作『かか』で三島由紀夫賞を受賞した弱冠21歳の新星、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』である。

語り手は、16歳の女子高生・あかり。アイドルグループ「まざま座」の男性メンバー・上野真幸(まさき)を推し、ファンブログを運営している。推しの出た番組を全て録画し、書き起こし、全身全霊で解釈する彼女のブログには愛読者がつき、お互いの推しの話題で盛り上がれる友人もいる。一方で、推しへの思いと、そこから生まれた人間関係以外に、あかりが体重を預けられるものはない。子供の頃からもの覚えが悪く、病院で診断もついたが、真幸ばかりを追いかけているあかりを、母親は持て余しており、姉は疎んじていて、父親は海外赴任中だ。活動費を稼ぐためのバイト先でも、要領の悪さゆえに「あかちゃん」と呼ばれている。それでも、推しという“背骨”を頼りに生きているあかりに、真幸が女性ファンを殴ってネット炎上するという出来事が降りかかる……。

<まだなんとも言えない。何度もS N S上で見かけた大多数のファンを同じことを思う。怒ればいいのか、庇えばいいのか、あるいは感情的な人々を眺めて嘆いていればいいのかわからない。ただ、わからないなりに、それが鳩尾を圧迫する感覚は鮮やかに把握できた。これからも推し続けることだけが決まっていた。>

よるべのない小舟のように生きるあかりだが、その意思はぶれることがない。真幸がそこにいる限り、誰かを殴ろうが炎上しようが、推し続けることが彼女の至上命題だ。すべての人間がそうというわけではないことは作中でも描かれている。推しにプロフェッショナルや擬似恋人であることを求める者は、偶像が破壊されれば、推すことを“降りる”。自力でその業から離れられる者は、幸いだろう。“降りる”先に他の推しがいる場合もあるし、それ以外の日常がある場合もある。でも、あかりには真幸以外何もない。家族も学校もバイト先も、あるはあるけれど、良い娘にも、良い同級生にも、良い従業員にもなれない。彼女にとって、現実は手に余る。そうと選んだわけでもなく、そうせざるを得ずに、あかりは推しに向き合い続ける。

けれど、徹底的に推しを眺め、真実の欠片をすくいとろうとしても、あかりが脳内に描く彼の肖像画と、上野真幸本人とが、完全に重なることはない。作中、あかりを真に打ちのめすのは、彼が女を殴ったことでも、インターネットで燃えたことでもなく、ただシンプルに、その厳然とした隔たりだ。

<もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。>

なぜその隔たりが問題になるのか? それは私たちにとって、私たちの実存が、対象を解釈し、その解釈に反射させてやっと捉えられるものだからだ。インターネットでちょっと検索すれば、無数の「あかり」が書いた文章がたくさん出てくる。推しの一挙一動に心動かされ、それをSNSやブログにつづることで、自分をかろうじて見失わずに済んでいる人たちの文章が。「推しに救われている」という多幸感は、「推して救われたい」という血の滲むような祈りの裏返しだ。祈っている間だけ感覚があり、感覚がある時だけ生きている実感がある。ゆえに、推す対象としての「推し」と、現実を生きる本人の不一致に目を向けてしまうことは、推す主体としての「自分」と、現実を生きる自分のあいだの、埋めがたい溝に目を向けることでもある。

ずいぶんナイーブと思うかもしれない。他者に依存しすぎだと呆れる人もいるだろう。しかしこれは、他者を推す私たちだけの脆さというわけでもない。宇佐見も本作のインタビューで「自律的に生きてる人ってそんなにいっぱいいるのかな?」と語っている。偶像を持たない者たちだって、妻・夫、母・父、娘・息子、子供・大人といった虚像(イメージ)に嵌まってようやく、自己を捉えたと錯覚しているだけではないか? そうした、使い古された鋳型に罅(ひび)が入った現代で途方にくれた私たちの前に、あらわれたのが「推し」という概念であり、「推す」という行為だった。私たちは、どうにか手をのばせた彼らの表面に反射させて、自分の姿を見ようとしているだけなのだ。

そんな祈りと引き換えに、私たちは数年の命を得ている。永遠の命は当然手に入らない。相手はどこまでも生身の人間で(二次元の場合もあるが)、超自然的な存在でも、死後の安寧を約束する者でもない。病める時も健やかなる時も活動を行い続けるという保証すらしてくれない。真幸は去った。私たちの推しもいつかは去る。

推して燃え尽き、“背骨”を失ったあかりには、もう何も残っていないのだろうか。そうではない、と宇佐見は示している。

<彼がその眼に押し留めていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う。(中略)思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、たたきつけるように振り下ろす。>

割れた鏡があかりに滴らせた血が、彼女に彼女自身として感じられる感情を呼び起こした。その痛みはあかりの新しい命であり、実存の前で立ち尽くすすべての者たちをいつくしむ、新時代の福音ではないだろうか。

 

※「新潮」2020年11月号に掲載されたものを、編集部に確認をとった上で転載しました。