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滑稽で愚かな彼らーーミュージカル「スリル・ミー」感想

4月に、ミュージカル「スリル・ミー」を3度鑑賞した。

 

horipro-stage.jp

 

「スリル・ミー」は、2003年にNYのオフブロードウェイで初上演された二人芝居のミュージカルで、日本には2011年に初上陸した。1924年アメリカで発生した、ニーチェの超人思想信奉者であり、同性愛関係にあった青年二人による誘拐殺人事件「レオナルドとローブ事件」を下敷きにしている。刑務所に37年服役している<私>が、仮釈放審判の最中に、事件の動機を問われて、<彼>との思い出を語り出すという筋書きや楽曲は、オリジナル版でも、栗山民也が手掛けた日本版(その前に上演されていた韓国版を踏襲している)でも共通だ。

 

ただ、オリジナル版では、キャストにリチャード・ネイサンと名前がついているのに対し、日本版(及び韓国語版)では、キャストの名前はほぼ出てこず、<私>と<彼>として抽象化されている。固有名詞が捨象されたことによってさらに純化された男同士の愛憎劇は、日本でも熱狂的な人気を得て、既に5度以上の再演が行われている。

私は、ミュージカル好きの友人から2013年の再演の時にその存在を教えてもらった。あまりミュージカルを観てきた人間ではなかったが、大阪から遠征するほど面白い作品だというのと、男同士の恋愛であるというので関心を持ち、最初に見たのが2014年の銀河劇場だったと記憶している。一度観たらすっかりハマってしまった。同じセリフ・演出なのに、キャスト同士のケミストリーによって<私>と<彼>の印象や関係性がガラリと変わるのがたまらなくて、2018年の再演からは、全てのペアのチケットを取るようにしており、今回も、田代万里生&新納慎也ペア、成河&福士誠治ペア、松岡広大山崎大輝ペアの3ペア全てを一度ずつ鑑賞した次第だ。

 

さて、初鑑賞時には感想文や二次創作を読み漁り、その後の鑑賞においても、<私>と<彼>の関係性に胸が締め付けられるような切なさと萌えを感じながら堪能してきたのだが、今年はちょっと違う視点が生まれてきた。これまではスリル・ミーを「悲劇」として観てきたのだが、これは「喜劇」ではないか?と思えてきたのだ。私よりはるかに多くの鑑賞をこなして考察をしているスリル・ミーガチ勢(全通とかしている方も多いので…)の中には、もしかしたらこの見方を間違っているとか、不快に感じるとか思う人もいるかもしれない。また、がんがんネタバレもしていくので、心の広い方だけ読み進めてほしい。

 

と、本題に入る前に、2月に観た韓国映画KCIA 南山の部長たち」の話を挟む。

klockworx-asia.com

 

これは、男二人しか出てこないミュージカルではなく、実在の人間をモデルにした固有名詞(一応別名になっているが)をバリバリ所有する男たちが出てくる韓国ノワールである。舞台は1970年代の韓国。15年以上にわたる長期政権を敷き、「独裁者」との批判的評価を受けていた朴正煕(パク・チョンヒ)が、腹心の部下であるKCIA大韓民国中央情報部)のトップ・金載圭(キム・ジェギュ)に殺された事件のノンフィクションを題材としている。主人公は、金載圭をモデルにしたキム・ギュピョン。演じるのはイ・ビョンホンだ。パク大統領のあらゆる命令に従い、時には朋友すら手にかけてきた彼が、いかにして、大統領を殺そうと思い至ったのかを、事件の手前40日間を描くことで映し出す映画である。

韓国映画の常連を張る、錚々たる俳優によって展開される「暗殺事件」のストーリーは、国際社会の中で困難な立場に立たされている国家の緊迫、抑圧的な政情に不満を抱えた大衆の空気感、それを弾圧することに徹する大統領に対し絶望を重ねていくキム・ギュピョンの苦渋に満ちた表情、で彩られている。イ・ビョンホンのキャリアの真骨頂と言える演技は本当に素晴らしく、観ている間、こちらも手に汗を握らされた。

しかし、である。「KCIA 南山の部長たち」が真剣に作られている映画であればあるほど、そして、イ・ビョンホンが暗殺者を真面目に演じれば演じるほど、「あれ?」と思う瞬間があった。というのも、「情報部部長が、民主化への機運が高まり不満が募っている国家状況の中で、長期政権を敷いている大統領を殺した」という時事的な側面を抜きにしてこの事件を見たとき、要は「男だらけのボーイズクラブの中で、だんだん上司が自分を鬱陶しく思い出したことに気づき、焦って色々歓心を買おうとするも裏目に出て、腹心だけの飲み会に自分だけ呼ばれなかったことで感情が限界に達して、キレながら殺す」男の物語なのである。時代背景や個別の人物の背景を除外して物語をまなざすとーーつまり、引いていたカメラを、もっとアップにして物語を見ると、と言えるかもしれないーーこれは「悲劇」なのではなく「喜劇」なのではないか?と我に返りそうなタイミングが多々あった。これは決して私のうがった見方ではなく、おそらく監督や俳優も、念頭に置いていたことではないかと思う。真面目に演じられれば演じるほど、国家の大義が語られれば語られるほど、画面上で描かれている「会合」は、どこまでも陳腐で矮小で滑稽なものに思えた。本作を監督したウ・ミンホが、やはりイ・ビョンホンを主人公に据えたヒット作「インサイダーズ/内部者たち」にて、汚職政治家たちが夜な夜な行う全裸飲み会を、極めてグロテスクに描いていたことからしても、ホモソーシャル/ボーイズクラブの滑稽さを炙り出すことに、とても意識的な作品だと感じた。総体としての悲劇が、真面目に撮られれば撮られるほど、細部の滑稽さが際立っていた。残念ながら一度しか鑑賞できなかったが、もし二回目を観ていたら、自分が呼ばれなかった飲み会の会場の押し入れにこっそり忍び込んで、肩を震わせながら会話を盗聴しているイ・ビョンホン(この盗聴こそが、まさに彼に暗殺を決意させる最後の後押しになるのだが)に対して、ちょっと笑っていた可能性すらある。

 

翻って「スリル・ミー」である。私はこの作品をずっと、というか2019年の鑑賞までは、究極的に純化されてのっぴきならなくなってしまった業の深い、そこにしかたどり着けなかった愛の物語だと捉えていた。つまり、真面目も大真面目の大悲劇、ということだ。「裕福な家庭に生まれながらも、親からの苛烈な教育によって承認をこじらせ、ニーチェの思想に傾倒した結果、『超人』を希求して犯罪を犯す<彼>と、同性愛者であることを隠しながら暮らし、好きになった相手の欲望に限界まで付き合い、彼を凌駕する『超人』となって彼を屈服させるために、あえて警察に捕まるための仕掛けを施す<私>」の話である。私は、才能を巡って嫉妬しあい、だまくらかしあい、素直になれない同性同士の関係に激しく萌える気質なのもあり、初見からすっかりこのストーリーラインに完敗してしまい、<私>はいつから彼の裏をかこうとしていたのか、果たしてその感情のどこまでが愛といえるのか、もしかしたらどこからかは憎しみが混ざっているのではないか、ということを延々考えるのに夢中になっていた。実際、ペアごとにその辺りの「解釈」が細かく練られているな、と思わせる演出になっており、それはとても楽しいことだったのだ。本当に、素晴らしいミュージカルだと思う。

ただ、今年に限っては、こうした「解釈」を行うことに、あまり関心がわかなかった。「KCIA」のせいだと思う。むしろこれまでは全くそこに思いいたってなかったのだが、彼らの「滑稽さ」が気になってきた。だって、冷静に考えたら、ニーチェは「超人になるために、犯罪をしろ」とは一言も言っていない。これは舞台の前半では<私>も、何度も<彼>に言っていることだ(「火をつけろって、ニーチェは何章で言っているんだ?」)。そして、セックスして欲しくてたまらない<私>に対して、あまり乗り気ではない<彼>が、犯罪の幇助を交換条件とした契約書を持ち出すというのも、かなりおかしい(これで二人は完全な絆で結ばれた もう戻れない二人は 血と血で誓った」)。おかしいと、<私>も歌いながら主張するが、<彼>の勢いは止められないし、自分の欲望にも屈してしまう(「気が狂いそうだ もう苦しめないで 今度は抱きしめて」)。そうして<彼>とともに誘拐殺人を犯してしまう上に、<私>のほうは、(<彼>と観客を出し抜く形で)「彼を凌駕する『超人』になる」という裏のゲームを始めだす。二人は刑務所に終身刑+99年収監されることとなるが、<私>は幸せだ。当初、彼の『超人』思想を馬鹿にしていたはずの<私>はどこにもいない。大真面目に「永遠に一緒にいられるね」と歌い上げる(99年 勝ったのは僕だ 勝負の終わり いつまでも 僕のものだ 99年)。そうして回想は終わり、<彼>は舞台から消える。裁判官たちへの釈明を終えた<私>は、「こんな奴を刑務所に収監していても税金の無駄である」という理由により、釈放される。「男同士の燃え上がる愛」への萌えを傍らに置いて筋書きを検討すると、なんだかとっても愚かしい話ではないか?(もちろん、愚かさというのが愛にはつきものなのを差し引いても)

 

この「愚かしさ」について、脚本家たちは意識的ではないかと、特に感じた箇所がある。ラストの盛り上がりである「99年」が歌われる手前の、<彼>のセリフだ。自分たちの死刑を回避し終身刑を勝ち取ってくれた人権派弁護士の手腕について、法学部出身の二人が、感動気味に話す場面である。

<彼>「 いいか、本当は俺がなりたいのは、まさに彼のような弁護士だ」

完全犯罪を志向して子供を誘拐し殺人した人間、そして終身刑が決まり一切の将来計画が絶たれたはずの土壇場で発する言葉として、これ以上滑稽なものはないだろう。この台詞は、思っていたより重要なのではないか?と今回私は思った。というのも、<私>は、この彼の言葉に「そうだったんだねえ」と頷いてから、隠された目論見を明かすからである。つまり<私>は彼の滑稽さをしっかりと受け止めており、それでも彼を愛することを止めずに、自分も愚かさに殉じたのだ、ということを今回ひしひし感じたのだった。そして、極めて真剣に二人の愛憎を悲劇に純化させながらも、セリフや演出の片隅に滑稽さと愚かさを滲ませることには、その最小単位のボーイズクラブ/ホモソーシャルへの批判の眼差しがあると、理解できた。


仮釈放の審判で、<私>は被害者への反省を口にしている。私は2019年まではそれを彼との愛に殉じた結果、すでに狂いきっている<私>の嘘だと思っていたのだが、今回は、もしかしたら本心の反省と捉えることもできるかもしれないなと考え直した。実在の二人の青年が、『超人』思想に囚われず、犯罪を重ねるスリルに夢中にならず、実在の未来あった少年を殺すことがなく、地道に学問を修めて弁護士資格を取っていれば、どんなによかっただろう。それは喜劇でも悲劇でもなく、ミュージカルにならない。結局起きたことを物語にしている以上「綺麗事」ではあるかもしれないが、それは本作がとても真摯な物語である証拠なのだと、改めて思った。

 

 

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 【追記】

本ブログを読んだ友人から、「成河さんは特に、本作を喜劇的に捉えている気がする」とコメントをもらった。確かにパンフレットのインタビューにおけるコメントなどを見ると、そのような開かれた解釈に意識的で面白いなと思った。成河さんの<私>を観たからこそ、生まれた感想だったかもしれない。