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それは、私たちだけのものーー『持続可能な魂の利用』(松田青子)書評

持続可能な魂の利用

《あの人は消えてなんかいない/あなたの世界からいなくなっただけ》

 現代社会が内包するグロテスクさを、その中でもがく女性たちに寄り添う姿勢を貫きながら、コミカルかつシニカルに描いてきた作家・松田青子。「普通」「当たり前」「みんな」「そうすべき」を解体する彼女の文章には、いつも励まされ、笑わされ、胸の奥のつかえを言い当てられて、優しく抱きしめられるような気持ちをもたらされてきたのだけど、最新作にして初長編である『持続可能な魂の利用』は、ページをめくるや否や、快哉を叫びたくなる作品だった。エピグラフが「少女革命ウテナ」! これは女たちの「革命」の物語であるという高らかな宣言が、そこにあった。

 主人公は、日本で生まれ育った30代女性の敬子。他の大多数の女性と同じように、この社会の「普通」「当たり前」「みんな」に馴染んで、学校を出て、恋人を作り、派遣社員として働いていた。そんな彼女が、同僚男性から受けたハラスメントを告発した結果、周囲から「交際がうまくいかなかった腹いせに嘘の告発をした」というレッテルを貼られ、自主退職に追い込まれてしまう。自分の人生がいかに、「おじさん」から身を守るための無意識の努力の上に成り立っていたかを痛感した敬子は、少女たちが「おじさん」から見えなくなり自分たちだけで暮らす世界を夢想し始める。と同時に、現実世界で、「おじさん」の一人にプロデュースされたアイドルグループのセンター、「おじさん」の願望に忠実に振る舞う傀儡に見えながらも、決して侵されない輝きを放つ少女・××に魅入られ、傾倒していく。「おじさん」が支配する現実社会で、敬子と、少女たち、そしてかつて少女たちだった者たちが選択した「革命」とは。

 本書の白眉は、時事的なトピックも盛り込みながら徹底的に描写された、女の生きづらさのディテールだ。韓国から上陸し、日本でもベストセラーになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』は、33歳の女性キム・ジヨンから、彼女、彼女の母、祖母それぞれの半生を精神科医が聞き取るというスタイルで、韓国における「普通の女性」の生きづらさ、それを生み出す韓国社会のいびつさを炙り出していた。一方の本作は、敬子だけでなく、同じ時代を生きるいくつかの立場の「普通の女性」が複数人登場し、それぞれの立場から生きづらさを語る。日本社会におけるいくつもの「あるある」が詰まっていて首がもげるかと思ったけれど、私にとって一番胸にきたのが、序盤で敬子が、一人暮らしの部屋に鍵をかけずに暮らしていると語った後輩男性を回想する場面だ。

《そうなんだと軽い笑い話にして済ませたが、心の中では衝撃を受けていた。敬子の目の前にある、日常を恐ろしいと感じていない健やかな心に、そんな自分が情けなかったが、敬子は少し傷ついた。》

 ちょっとしたことじゃん、と思う人もいるかもしれない。都会では性別にかかわらず不安だから、自分はきっちり鍵を閉めているよという男性の方が多数派だろうとも思う。でも間違いなく、属性ゆえに気をつけなければならない度合いが増す「ちょっとしたこと」があって、しかもそれが無数にあって、その無数の「ちょっとしたこと」の積み重ねをしなければならない自分を自覚することには、とてつもない惨めさ――「魂」を削られる感覚があるのだ。

《三十年以上生きてきた敬子はもう自分の魂は、どれだけ満タンにチャージしても、残り『82%』ぐらいなんじゃないかと感じる。さっきの××たちのライブでだいぶ充電されたけれど、それでももう『100%』には戻れない。一体人生のどの段階まで、敬子の充電は『100%』だったのか。》

「ちょっとしたこと」に抗うのには、しかし「ちょっとしたこと」に従う以上のカロリーが必要だ。すっかり疲れ切り、これからも魂をすり減らしていくかに思えた敬子が、彼女のいる地獄に立ち向かおうと奮い立ったのは、年齢も境遇も違う、顔見知りですらない××がステージで輝く姿があったからだった。××が敬子に与えたものは一体何だったのだろう。恋、愛、憧憬、信仰。そのどれでもあると思うし、どの言葉にも収まらないようにも思う。いずれにしても、そこには敬子の「魂」の削れたぶんを充填するようなエネルギーがあって、あるいは、敬子が「魂」の残りを使い果たしたってかまわないと思うような、「賭けたさ」があった。自分のためだけではなく、自分の魂を「賭けたい」と思える誰かや未来があってこそ、人は「革命」を起こせるのだ。

 アニメ「少女革命ウテナ」は、子供の頃に救ってくれた王子様に憧れ、王子様を目指す少女・天上ウテナが、学園で“薔薇の花嫁”という役割を背負わされた少女・アンシーと知り合い、彼女を救うために、生徒たちが行う決闘ゲームに身を投じるところから始まる物語だ。松田が本作第一部のエピグラフに掲げた言葉は、「ウテナ」最終回に出てくる。それまではウテナに救われる側であり、そのウテナの気持ちすら理解できないほどに、個としての主体性を失い、自分に課せられた役割に殉じていたアンシーが、最後の最後に自分から、役割を放棄することを選んで、発したものだ。彼女がその言葉に至るまでに何があったかはぜひ同作を視聴してほしいが、彼女がその言葉を発することができたのは、アンシーがウテナに「賭けたい」と思えたからだった。それはウテナが、アンシーに「賭けて」くれたからこそなのだ。敬子は、ウテナでありアンシーでもある。

『持続可能な魂の利用』の表紙には、英題が添えられている。

“The Sustainable Use of Our Souls”

「魂」の持ち主は、「私」ではなく「私たち」だ。敬子だけでなく、私たち一人ひとりもまたウテナでありアンシーである。持続的に利用されるべき、誰かに消費されるべきではない「魂」。それを賭けるか賭けないかは、いつだって私たちの思いのままなのだ。

 

※「群像」2020年8月号に掲載されたものを、確認をとった上で転載しました。

 

持続可能な魂の利用

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