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飲みすぎないように文章を書く

彼女たちが革命だった頃ーー『密やかな教育: 〈やおい・ボーイズラブ〉前史』

密やかな教育: 〈やおい・ボーイズラブ〉前史

このJUNE―BLというゲームは、このゲーム に参加しているだけで、ホモソーシャルの分解というフェミニズム的な行為に加担している仕組みになっている、つまりゲーム自体にフェミニズム的実践がそもそも組み込まれているのだが、ゲーム本体のパッケージにはフェミニズムという言葉が記されていない。ー世界の合言葉は《JUNE》――中島梓「小説道場」論 瀬戸夏子(SFマガジン2022年4月号収録)

今年の前半は、立て続けにBLについての評論を書く機会があった。

 

SFマガジン4月号BL特集で「腐女子」のアイデンティティについて、小説現代5・6月合併特集号でBL出身作家がジャンル外で活躍している現状について執筆した。2007年ごろに「ユリイカ」が立て続けに出していたBL特集はすべて当時購入して持っていたのだが、15年経って読むと本当にさまざまな発見があり、とてもよかった。

わたしは現在ロンドンに留学中で、修士論文でもBLを取り扱う。過去に読んだ資料を読み返し、持っていたが未読の資料をちゃんと読み、今回のために買った資料を読み……をしているのだが、そのなかで、ジャンルとしての「BL」が確立する前の時代、つまり「少年愛」と「JUNE」の時代について、自分がかなり表面的な理解しかできていなかったと痛感した。

 

いちおう『BLの教科書』(有斐閣)や、昨年11月に行われたマンガ学会シンポジウム(BLとメディア)のおかげで、JUNE-BLのつながりについて、以下の基礎知識と印象は持っていた。

1.竹宮惠子が「少年愛」をマンガにする(1970年〜)

稲垣足穂の『少年愛の美学』やヨーロッパの文学に影響を受け、漫画家・竹宮恵子、そのプロデューサー的存在・増山法恵が「少年愛」をマンガにし、少女漫画界のタブーとなっていた少年主人公と性的シーンを持ちこみ、話題となった。

 

2.雑誌「JUNE」が創刊され、竹宮惠子栗本薫が参画する(1978年〜)

竹宮、萩尾望都など「二十四年組」の活躍に目をつけた佐川俊彦が「JUNE」を企画。ここにワセダミステリクラブの先輩であり、群像新人賞・乱歩賞でプロデビュー、すでに作家・評論活動をしていた栗本薫中島梓)が加わる。栗本が「JUNE」文学についての強い美学を持ち、「小説道場」を通じてそれを投稿者に指導していった。ハッピーエンド絶対主義の後世のBLに対して、ゲイセクシュアリティに苦しんでいたり、近親相姦や性暴力などによる「傷」が中心に描かれ、悲劇で終わることもあるというイメージ。

3. 複数の出版社によるアンソロジー刊行、オリジナル専門誌、専門レーベルの立ち上げ、「ボーイズラブ」への変化(1990年〜)

「BL」として商業化された時代。攻め・受けのビジュアルやステレオタイプが明確なものとなり、学園ものが増える。書店にも「BL」コーナーができるようになった。

 

しかしこれでは全然たりてなかった、わたしは少年愛とJUNEの切実さについてまだまだ認識が甘かった、と実感させてくれたのが、石田美紀『密やかな教育: 〈やおいボーイズラブ〉前史』(2008)である。

 

 

少年愛の立役者にして裏方であった増山法恵のインタビューが唯一載っている商業書籍ということで、『一度きりの大泉の話』萩尾望都、2021)『少年の名はジルベール』竹宮惠子、2016)を読んで以来、ずーーーーっと気になっていたのだが、なんと絶版高騰中。8000円の値がついていた。さ、さすがに無理……と泣いていたのだが、今回意を決して手に入れ、読むことにした(ちなみに日本なら、図書館で借りて読めると思います)。そうしたら、実におもしろかった。 単純に歴史が整理されて関係者のインタビューが載っているのかな……くらいに思っていたのだが、予想以上にフェミニズムの話だったのだ。

 

BLの表象やコミュニティの性質について、フェミニズム性のありやなしやを問う文章はこれまでも結構読んできた。ただ「ない」にしても「ある」にしても、そこでフェミニズムが相対すると想定されている対象についてはあまり深く掘り下げられていなかったと思う。掘り下げられていなかったというか、概念的な「家父長制・異性愛規範社会」ということでで合意がとれているように、私には感じられていた。

『密やかな教育』を読んで新鮮だったのは、BLの起源、「少年愛」や「JUNE」は明白に、直近で相対すべき具体的なものを有していたということだ。つまり男主体のマンガ界、男主体の文学界である。BL世代の私、少女マンガがすでに市民権を得てから育ってきた私には目からうろこだった。

 

本書は、まず「少年愛」少女マンガの成立経緯と、マンガの「文化・教養」化、それに対して「文学」が危機感を持つようになったことを論じる「第一章 革命が頓挫したあとの少女マンガ」から始まる。ここでいう「革命の頓挫」とは、68年にピークを迎えた世界的な学生運動の波と、その後の1970年の三島事件、1972年のあさま山荘事件を指す。竹宮が学生運動に刺激を受けて自分たちの「少女マンガ革命」を志し、少年愛にたどり着いたという話は『少年の名はジルベール』に詳しいが、増山も本書収録のインタビューでこうかたっている。

増山 でもわたしには、七○年安保闘争に夢を馳せる若者たちの理想は、どこか具体性や現実性に欠けているように思ったのです。理論にばっかり走っていて、その理論のどれもがどこからかとってきた論理で「話しているあなたが組み立てた物じゃないでしょう」と感じるのが多くて。…(中略)…そのときから「革命」ってなんだろう?と考え始めたのです。「革命」ってひとりで起こせるものじゃないかな、って。絵画でもいい。映画でもいい、音楽でもいい、マンガでもいい、流れを自分なりの新しい思想にひっくり返すのが、いわゆる革命のはず。ひとつの分野だったら、ひとりの発想から新しい時代へとひっくり返せるぞ、と思いました。…(中略)…頭の中でひらめきましたね。竹宮と萩尾という稀有な才能を目の前にした瞬間「少女マンガ革命を起こせる!」と。

こうした増山という特異点の存在もあり、竹宮・萩尾ら24年組は「女こどもの」「くだらないもの」と見下げられていた少女マンガのイメージを全面的に刷新することになる。またなんと当時は性別によって印税が違ったらしく(絶句……)、その性差別に抗議して女性マンガ家の待遇を改善したのも竹宮・増山だったようだ。ちなみに萩尾に関しては「自分には革命というつもりもBLのつもりもなかった」と語っており、非常に複雑な部分があるとは補足しておきたい(『一度きりの大泉の話』参照)。

 

24年組の「革命」は、たんに少年愛の導入でも賃金格差の是正だけでもなかった。石田は、竹宮・萩尾のマンガのモノローグを取り上げながら、彼女たちが影響を受けたヘルマン・ヘッセの小説の映像的な心情描写に言及し、24年組の「文学的内面描写」に大きく注目する。1998年に「文學界」で発表された大塚英志の論考「まんがはいかにして文学であろうとし、文学はいかにしてまんがたり得なかったか」(『サブカルチャー文学論』収録)を引きながら、あるジャンルが文学的であること、「くだらなくない」表現ではないことは「内面描写」の成功・不成功にあると思われており、24年組のマンガは、ただ人気のみならず、内面描写に成功したことで、文学界に脅威を与えたのではないか、と論じる。この論考のタイトルも、オタク文化が確立してしまったあとの世代の私には衝撃だった……この年には「文学はなぜマンガに負けたのか!?」なる評論特集も出たらしい。

 

さて、ここまでも十分におもしろかったのだが、私が『密やかな教育』の白眉だと思ったのは、少女マンガが文学界にもたらした動揺が、まわりまわって栗本薫/中島梓にJUNEへの傾倒を加速させたのではないか?という石田の架橋の仕方だった。

鍵となるのは、24歳で群像新人文学賞評論部門をとった栗本が同世代の中沢けい、見延典子と共に「音羽キャンディーズ」と呼ばれ、栗本はそれに強く抵抗していたという話だ。キャ、キャンディーズ……今でも小説家の顔出し文化はあるけど、若い女だけ「キャンディーズ」呼ばわりされるのはすごい。「雑誌コバルト」全盛期に少女小説家がグラビアページでテニスしてる写真とか載せられていた、という話は聞いたことあったけど……(まあバブル期の同人女作家は自分で自分の写真集をつくって売っていたりしたらしくて、それもそれですごいのだが)。

中沢、見延の小説は、どちらも女子大生の性・妊娠を描いている。見延の『それでも頬づえはつかない』にいたっては、50万部を超える熱狂的な売れ行きを見せ、映画化もしたそうだ。これを石田は、「中沢や見延がうら若き女性の内面世界を屈託なく綴ってみせた」と評し、それでも彼女たちにとっては「創作」であったその小説が、選者や世間からいかにも作者=〈わたし〉であるかのように読まれる「事態」が起きたと指摘する。

 

七○年代の新人女性作家にとって、屈託なく「わたし」という一人称を用いることは、作者を作中の「わたし」と安易に同一視する視線に身を晒すことであった。……(中略)……「私小説」は、大衆小説から差異化を図る純文学に必要とされたカテゴリーでもある。……(中略)……だとしたら、七○年代末、マンガという新しい〈教養〉の台頭を前にして、〈文学〉の旗色が悪かったからこそ、純文学の伝統である「私小説」が必要とされたと考えられるだろう。その際に、白羽の矢が立てられたのはうら若き女性の内面だったのである。

 

栗本は純文学の小説も発表したが、江戸川乱歩賞をとって、ミステリ・SFなどエンターテイメント小説を主戦場とした。そこで彼女が行ったのが、『ぼくらの時代』シリーズの主人公を栗本薫と名付け、「わたし」ではなく「ぼく」と名乗らせ、性別を改変したことである。ミステリジャンルにおいて、探偵役が作者と同名を持っていることは今も昔も珍しくないが、性別が異なるパターンは当時稀であったらしい。石田はこれをミステリという、作者とキャラクターが同一視されにくい分野だからこそできた、栗本にとっての当時の世間的「私小説」へのカウンターだったのだとみる。栗本個人の現実の情報を詰め込みながらも「作者の現実をなぞった存在ではなく、作者をあるべき姿に改変した人物」として「ぼく」を生み出し、「若い女性ならではの内面」を描くことを拒否したというわけだ。栗本/中島は自分の創作に対する姿勢をよく「アナーキー」という言葉で称しているのだが(「小説道場」御隠居編ではこの言葉でBLに対してめちゃくちゃ苦言を呈している……)、これはある種のフェミニズムの形でもあっただろう、と私は思った。

 

そのうえで石田は栗本が(沢田研二のドラマに影響を受けて)書き、初期のJUNE小説として知られる『真夜中の天使』も、栗本にとって「あらまほしき私」の変奏だったのだろうと捉え、栗本の下記発言を引用している。

 

今西良はもうまったく、沢田研二でも可門良でもありません。誰になったのか、というと、たぶん私になったのだと思います。(『真夜中の鎮魂歌』あとがき)

 

これは自分がエッセイやコラムを書いているから思うことではあるのだが、女性のほうが「生の体験」をさらけだすことを期待される風潮は、いつの時代も間違いなくあると思う。エッセイやコラムはまあノンフィクションなので(脚色が入らないわけではない)、逆に、性的なことや生々しいことはプライベートなこととして控えることがむしろ可能だし、そういうものを書くのであれば、むしろ作者の匿名性は保護されることが許容されている印象がある(私個人は「そうあるべきだ」と思っている、とも言えるかもしれない。また、このSNS時代において若干風向きが変わっていることは否定しない)。反対に、創作をしているのにそれが「生の体験」だというふうに強調されてしまう、当事者性をあるジェンダーだけが強調・称賛されてしまうということはたしかにそのとおりで、しかしそれがBLの成り立ちとも関わりうるものなのだ、という視点は、『密やかな教育』を読んで初めて得られたものだった。BLが読み手にとって「ジェンダーから逃れて性的なものや恋愛を楽しむ装置」であることは私にとって自明だったが、JUNEが「ジェンダーから逃れて性的なものや恋愛を書くための叛乱」であった、その重みを理解していなかったのだった。

もちろんBLは決して完全なるファンタジーではなく、男性同性愛には別の「当事者」がいる。そのため、ゲイ男性とのあいだでの論争が90年代、よりボーイズラブが商業化していく過程で起きていくことになる。この辺りは石田仁「『ほっといてください』という表明をめぐって」(2007、ユリイカBLスタディーズ収録)、溝口彰子『BL進化論』(2015)などに詳しい。

どんな芸術作品もいわゆる「真空」に存在しているわけではないことを、一九八○年代に新しい美術史(ニュー・アート・ヒストリー)が指摘したように、BL作品も「真空」に存在しているわけではない。……(中略)……したがって、女性たちのファンタジーが投影されているだけではあっても、ホモフォビックな言説に二重に加担しているという事実が消えるわけではない。 溝口『BL進化論』(2015)より

それでも、結果的な「ホモフォビックな言説」については現在進行形で引き受けていくとしても、というかだからこそ、始まりの意図はむしろホモセクシュアルの簒奪ではなく、自己愛的なホモソーシャル少年愛、耽美)への侵入であり、そしてホモソーシャル的な男性中心の「文化」、男性がまなざし消費することが前提となっている「女性の創作」に対しての革命・叛乱だったのだ、ということは、知れてよかったし覚えておきたいと思ったのだった。

 

ちなみに三島由紀夫朝日新聞特派員としての公費でのヨーロッパ旅行と、24年組の私費でのヨーロッパ旅行を対比しつつ、頓挫してしまった革命における「男性身体の政治的利用」の過程に言及した「第二章 ヨーロッパ、男性身体、戦後」もめちゃくちゃおもしろかった(先日MISHIMA映画のブログを書いたら、それを読んだロンドンの友達がまさに三島の紀行エッセイ集を貸してくれたところだったので、不思議な縁も感じた)。興味を持った方はぜひ図書館で借りるか、復刊リクエストを洛北出版に送りましょう。

 

『密やかな教育――〈やおい・ボーイズラブ〉前史』、石田美紀、洛北出版、ISBN9784903127088 | 洛北出版オンラインストア

 

そして、前半の「私の考えていたJUNE」のイメージ(ハッピーエンド絶対主義の後世のBLに対して、ゲイセクシュアリティに苦しんでいたり、近親相姦や性暴力などによる「傷」が中心に描かれ、悲劇で終わることもある)がちょっと違っていた、という話は今回の『密やかな教育』の紹介では十分できなかったので、別途、『小説道場』の感想とともにブログを書ければいいなと思う(すごかったです、JUNEの原液で)。その前に論文進めなくちゃですが……。