この作品はおそらく、文学界の新人賞に投稿されてもちっともおかしくないし、あるいはそういう新人賞受賞作品として登場してきたって特に見劣りがするわけでもないような気がする。JUNE、というのはあるいは「この小説以前」か「この小説以後」なのかもしれないなあ、という気がするのだね。
大学院でBLについての論文を書く過程であれこれ資料を読んでいる。先日は『密やかな教育: 〈やおい・ボーイズラブ〉前史』(石田美紀)についてブログで紹介した。
論文全然書き終わってないので、本当は「BL以前」のことは忘れて、BLそのものやファン研究の英語文献を読まないといけないのだが……JUNEに連載されていた中島梓(栗本薫)『小説道場』を腰を据えて読み始めたら、面白すぎて電子版5冊を一気に読了してしまい……関連する小説も読みたくなり……「JUNEってなんだ?」を突き詰めるうちにあれこれ考えたことがあり、またブログを書くことにした。
私は雑誌JUNEに全く触れたことがない。小説JUNEがコンスタントに刊行されていたのが2000年代前半までで、私が商業BL小説を読み始めたのは2007〜2008年ごろなのでまあやむをえない。
『小説道場』とJUNEが中島にとって「うら若き女性としての内面」を消費させよと迫ってくる主流純文学との決別であったことは『密やかな教育』に詳しい。ただ中島はそれでも、(男)社会に消費されない形である限り、書き手が切実な「内面」を絞り出したものこそが、巧拙を問わず「良い小説」だと考えていたように思う。『小説道場』には技術的なアドバイスもあるが、中央を占めるのは「さらけ出せよ」というメッセージなのだ。この意味でJUNEは、つねに「私小説」のオルタナティブであり、『小説道場』はいつでも精神分析である(この点は、SFマガジン4月号瀬戸夏子「世界の合言葉は《JUNE》――中島梓「小説道場」論」で掘り下げられている)。それにしても、柏枝真郷に対する切っ先の向け方は、なかなかすごかった。リアルタイムで読んでたら、こっちまでトラウマになりそう(この後デビューしているから良いものの……)。
はっきりいって、私信、つまりプライヴェートはいいと思う。柏枝門弟が、どのような人格か、どういう問題をかかえ、どういう生い立ちをして現在にいたるか、というのは、本人の問題であって神聖である。…(中略)…君の場合、君の自意識過剰は、君がよい小説をかくさまたげになっている。よい小説は、読み手、つまりコミュニケートの相手をあらかじめ想定し、その反応に対して怯えている状況からは生まれてこない。…(中略)…相手の反応を予めはかってそれに対して怒ってはいけない。君の小説、君のそういう内面が丸ごと出てますよ。(中島梓『小説道場』第二十七回、柏枝真郷『月にウサギ』評より)
中島はたしかに男同士に萌えており、自らでもそうした作品を多数世に送り出していたが、かといって男同士であればなんでも良いと考えていたわけではない。中島の美意識はつねに「小説」のほうへと向けられている。そのため『小説道場』で取り上げられている作品には、女×女や女×犬(!)まであった。その一つ、いまだにTwitterでも言及されている嶋田双葉「冬服の姫」(小説JUNE1992年4月号掲載、ぴったり30年前だ…)を読む機会に恵まれたのだが、男同士の話でなかったぶん、私の頭の中のBLコードと切り離して「ああ、これがJUNEだったのか」と理解できた気がする。別居している父親が設計したジェットコースターが起こした事故により孤児になってしまった少女・真穂と暮らすことになった少女・花の一人称ですすむ短編だ。
「真穂、わたし、あなたのおとうさんにも、おかあさんにもきょうだいにも、恋人にもなりたいよ。あなたのまわり、すべてに。もしかして、わたしがなりたいのは、真穂そのものかもしれない。わたしのなかに、あなたに共鳴する、なにかがひそんでる。そう思う」(嶋田双葉「冬服の姫」より)
単なるBL読者だったときの私にとって、JUNEのイメージはかなり貧困だった。性行為がかなり無理やりだとか、当事者二人が結ばれずに終わるとか、近親相姦が多いだとか、とにかく誰かが死にたがっているとか(実際そういう作品も読んだ)。そういうステレオタイプから離れてJUNEを知ったのは、2008年12月に復刊された須和雪里『サミア』だったはずだ。胸を打たれたが、JUNE全体がこういうものというより、須和雪里がこういう作家だ、と捉えた記憶がある。
私にBLとJUNEの違いを積極的に意識させたのは、2009年にSHY NOVELSから復刊された榎田尤利の魚住くんシリーズだ。
榎田は、フォーマット化されたBL小説文化のなかでも多数人気作を書きこなし、現在は榎田ユウリ名義でジャンルレスな活躍をしている。読者を楽しませることに余念のない、ハッピーエンドに向けて丁寧で安全なレールを敷いておもてなししてくれる高度に資本主義的なロマンス文芸ジャンルとしてのBL文化に耽溺していた私は、そのジャンルの形成に大きく貢献している榎田の他シリーズを楽しんだからこそ、デビュー作「夏の塩」およびそこから展開していく魚住くんシリーズとの間の、明らかな差異に驚かされた。
物語は、サラリーマン久留米の家に、大学時代の友人・魚住が、ある日突然転がりこんでくるところから始まる。うん、ここまでは「BL」っぽい。しかし転がり込んできたのは別に久留米に恋しているからとかではないらしい。久留米もたいして魚住のことを気にかけない。久留米の元彼女・マリの登場により(これもBLっぽくないことだ)、魚住が味覚障害に陥っていることが明かされる。隣宅の留学生・サリームもまじえながら四人が日常を送るうち(ホモソーシャルなコミュニケーションを中心に物語が進まないのもBLっぽくない)、魚住が家を出てきた理由が、「家族同然に飼っていた犬が死んでしまい、どうすればいいかわからなかった」からだと発覚する。久留米、サリーム、マリは魚住とともに魚住の家に行き、魚住が放置していた犬の埋葬をする。その夜、子供たちの花火をベランダから眺めていた魚住は、久留米の首筋の汗が気になり指でとって舐め、自分の味覚が戻ったことに気づく(BLっぽくなった!と思ったけど汗を舐めるだけで終わるとは……)。
このように、いちいち自分のなかに埋め込まれた「お約束」を覆されるのは、当時の私には、想定外に心地よかった。魚住をはじめとしたキャラクターひとりひとりの圧倒的な解像度と、鈍速ながらも徐々に進展していく魚住と久留米の関係に心つかまれ、新装版を全部読み終える頃には、挿絵が見たくて旧版をまんだらけであさり、高騰していたメモリアルブックも落札するほどにはまった。
そんな魚住くんがJUNEではなかったのか……というのは『小説道場』を通読しての驚きのひとつだった。しかし、それまでの他作品への評を読み切った上で読んだので、ふしぎと納得はできた。たしかに「夏の塩」は、王道のBLではないがJUNEでもない、ということが何となく理解できた。「冬服の姫」と比べると、特に。
冒頭で引用した部分につづき、栗本はこう語る。
この小説というのはちょうどJUNEでなくてもいい、文学へいってしまえる地点に立っており、そしてJUNEというのは、文学へゆけないこういう心情、あるいはこの作品のさいごで魚住が汗の味に味覚を取り戻して「から」の物語、そのどちらかになるのかな、というような。この作品はちょうどバランスよくその「以前」と「以後」の中間に立ってしまっているので、逆にJUNEでなくていいのだ、文学になれるのだ、というような感じを受けてしまった。
文章もとても書き慣れているし、描写も的確だし、それにすでにこの世界には、魚住、久留米、マリ、インド人のサリームなど大勢の人が、それも男だけでなく少年だけでもなく、女性もちゃんと住んでいるーーつまり「他者」が存在しているーーああ、だからこそもしかしてこの小説はJUNEである必然性がないのかもしれない、といま思った。(中島梓『小説道場』第七十一回、榎田尤利「夏の塩」への評)
「他者」が書けてしまうとJUNEではなくなり、文学となってしまう。すごい物言いである。中島の言葉遣いは非常に文脈依存的で、ある種のいちゃもんのようにも見える。しかし小説道場は精神分析であり、『タナトスの子供たち』で詳説されたように、やおいやJUNEを好む書き手/読者は同じ病理を共有している、というのが中島の世界観である。
「他者」が書けているとは第一に、その作品が書き手の内面の病理から離れて歩き出せている(ように見える)ことを意味すると思う。嶋田双葉「冬服の姫」にもメインキャラクターは複数いる。語り手の花、花の家にやってきた真穂、かあさん、とうさんの四人だ。それぞれ個性もあり、別々の人間として魅力が描かれている。しかしそれでも「他者」を書いている感じがない。それはこの四人が家族だからということや、小説としての力の話ではない。「冬服の姫」のキャラクターは全員、なにがしかの嶋田双葉の分身だからだ。ああ、この人たちは全員別々の形で、嶋田の傷を象徴しているのだ、という雰囲気が相当に強い。「他者」とは、視点となるキャラクターにとっての他者であるだけでなく、作者にとっての他者だ。前のほうで引用した、花の「真穂になりたい」というセリフにもそれは表れているだろう。この「なりたい」に共鳴できる要素をちょっとでも持っている人間にとっては傑作だろうし、そうでない人間にはぴんとこない小説だとは思う。
といっても要求される共鳴性はそこまで厳密なものではない。キャラクターたちの共鳴は、読者をも共振させる、嶋田の言葉はその共振力にしっかり幅を持たせ、もう「少女」ではない読者をも引き込む力を持っている。
それはわたしがかあさんという固いカプセルのなかにはいりこみたいといつもいつも願ってきたからだろう。わたしはつねにかあさんを思って生きてきた。かあさんの言うとおりに、そしてかあさんが何も言わなくてもその心を読み取り、行動した。でもわたしがかあさんに馳せた感情は、はずれっぱなしだった。かあさんが好き、という想いはからだじゅうではねていたのに、どうやったらそれを伝えることができるのか、幼いわたしには見当もつかなかった。
…(中略)…
今回もまた駄目だったなあ。しかたない、次回に期待、と。その、気持ちの送り方って、もうちょっとのところでバスに乗り遅れたときの気持ちによく似ている。ああ、いっちゃった。乗りたかったなあ。でも、まあいいや、待てば、次もあるし。そんな感じ。
それでも、中島の想定するJUNEが、こうして実際に書かれているJUNEが、読み手に一種の素養、「わかる」「わかってもらう」ことにすがることのできる、孤独の才能を要するジャンルであったことはやはり否定できないと思う。
対する魚住くんシリーズで、魚住と久留米はたびたび「鈍感」だと称される。相手の感情だけでなく自分の感情にも鈍い。マリやサリームなどの「他者」に指摘されないと物事に気付かない。これも、同シリーズの脱JUNE性を象徴しているように思う。
魚住くんシリーズにも、色濃い傷の気配、死のにおい、喪失はある。久留米の鈍さは彼の伸び伸びしたところであり生来の性格だが、魚住の鈍さは、すべてに感性を殺してでなければ生き延びられなかった子供のそれだ。中島が自身のやおい・JUNE評論に『タナトスの子供たち』と名付けたのに対し、実は榎田も、魚住に対してほぼ同じ表現を用いている。
魚住は、死に近い。
タナトスを抱えて生きてきた子供なのだ。
(『夏の塩』収録「プラスチックとふたつのキス」より)
魚住がまとう死のにおいは、なんらかの形で作者から出てきたものではあるだろう。ただその傷と作者の間にしっかりと距離があるように思える。それは魚住と久留米が作者とジェンダーを異にするから、ではなくて、もっと別の次元のものだ。彼らは、作者との同一視を避けるために「男」なのではない。男の皮をかぶった女のように男なのではなく、魚住も含めて、(一般文芸で求められる程度に)青年男性であることに成功している。そして魚住と久留米は「同じになりたい」とも思わない。自己を確立しきる前のゆらぎを持った者同士の苦しみ、はそこにない。
魚住はたしかに非常に不幸な理由で「子供」であり、形式的にはJUNE性を担保するに足るものである。しかし中島がJUNEに望む、作者の分身、「少女」の面影は見えない。「夏の塩」の時点で、魚住の未熟さ、不幸さ、孤独さには「救い」の気配がある。「他者」がしっかり存在しているからだ。シリーズを追うごとに、なかなか結構しんどい過去や展開が連続するのだが、だからこそ、読者をあえて共鳴させすぎないような描写がされているように思う。
主要キャラクターであるマリはしばしば、他のキャラクターの、魚住をわかろうとする欲求、救おうとする欲求に警告を発する。
「とにかく、魚住の持つネガティブな部分に惹かれて気になっちゃうタイプ。それがあたしたちってわけ。だからって魚住と、どうしてもやれないってこともないけど。やっても虚しいと思うわね。もともと惹かれてる原因がフィジカルな部分とは全くの対極にあるものなんだから。センセ最後までいかなくてよかったかもよ? やってみてもしハマったら、それはそれで地獄だもん」
「地獄っていうのはすごいな」
「あの利発な響子ちゃんが、一時はあんなことになったのよ? 自分の恋人がわからない、自分の恋人を絶対に救えないっていうのはしんどいもんなんじゃないの?」
濱田は肉を咀嚼しながら考えた。
「救えない、かな」
「救えないわよ。魚住に限らないけど、他人を救うことなんかできるわけないじゃない。多少の手助けはできるかもしんないけどさ」
「そんなものかな」
「人間が人間を救えたら神様いらないでしょう」
(『夏の塩』収録「鈍い男」より)
こうした、「わかりあう」ことへの突き放した諦観、ある種の客観性が、この物語を逆説的に「救い」のあるものとし、読者を、出口のある方向へと導いていく。
『小説道場』全体を通じて、中島は「JUNE」と「小説」を巧妙に使い分け、書き手の性質に応じて、その作品のJUNE性と小説家性をどちらを伸ばすかを慎重にはかっていた。そのなかで「小説」と「文学」は区別されており、後者はつねに蔑視的ニュアンスで用いられていたが、魚住くんを褒める段においては(けなしてはいないだろう)、「文学」が、ポジティブな意味合いを帯びてしまっている。これは魚住くんという作品が、中島のつくりあげたJUNE的価値観の綻びをあらわにしかけたため、そこから気をそらそうとした結果ではないだろうか。
JUNEであることは男同士の恋愛を書くことを要求していない。それは意地悪に言えば、本当はJUNEは、「男」や「救い」をリアリティをもって描いてはいけないということではないか? 中島がJUNEに、小説道場に望んだのは、「少女の傷」を他人に消費されない形でさらけだし、共有することである。作者から離れた(すくなくとも離れてるように見せて)独立した「男」や「女」ーーつまり他者であり、大人であるーーが書けるならば、それはJUNEである必要がない。それが書けるということは、作者がこの世の現実的な「救い」を見通せているーーそれはつまり、劇的な救いなどやってこないという事実を受け入れることからはじまるーーことを意味し、作者が、JUNEを書くことで救われていく「少女」ではないことを意味する。必然的にJUNEではなくなる。小説は作者と読者のちょうど中間にあり、どちらかに依存していない。そのようにして成り立ち、しかし中島の評に反してJUNE読者を熱狂させてしまえる魚住くんシリーズーー中島言うところの「文学」ーーがやってきてしまったことは、のちのBL研究が批判するまでもなく、共有される一過性の「病理」としての男性同性愛フィクションの愛好、という中島の前提を覆すものであっただろう。
そのため、魚住くんがJUNEではないことと、ジャンルとしての「BL」がJUNEではないことは異なる意味を持つ。BLは必ずしも「他者」が描けているジャンルではない。中島はその意味でBLに脅威を感じたわけではない。BLでは、むしろ「他者」は捨象され、世界はメインカップル二人だけのものとなり、キャラクターは人間味を奪われていることが多々ある。しかし、それが皮肉にも、作者からキャラクターを独立させることで、JUNEに中島が求めた「少女」的感受性や病理、「私小説」性から離れた自由さをもたらした。そこに近年、(記号消費の快楽を捨てて)「他者」を許容する素地が読者にも生まれたことで、人気作家の一般文芸への越境を生み出しているのではないかとも思う。
……と書いているうち、じゃあやはり魚住くんシリーズはJUNEに投稿される必要がなかったのではないか?と思いそうになった。しかし、よくよく再読して、榎田ほどJUNEのJUNE性に意識的な作家もいなかったからこそ、JUNEに属しきらないものを書けたのではないか、と思い直した。とくにそう感じたのが、魚住のカウンセリングを担当するうちに転移してしまい自死に至る日下部のエピソードだ。病理をわかちあおうと望んで心中に誘う「魂の片割れ」志願者と二人だけの世界を築くのではなく、わかりあえない鈍感な「他者」である久留米と、マリ、サリーム、濱田、響子などちょっとずつ魚住を気にかける「他者たち」によって支えられて魚住が日々を生きていく、という本シリーズの展開は、小説道場ーーすなわち中島/栗本-門弟のあいだの精神分析と転移を通じて作られたJUNEの「密室」を、メタフィクショナルに解体していく。
ちなみに魚住くんシリーズは、2009年のBLレーベルでの復刊のち、2015年に角川文庫から再復刊されている。JUNEレーベル、BLレーベルを経て、一般文芸でもパッケージできるという点で、やはり魚住くんはJUNEであると同時にJUNEでなく、BLであると同時にBLでないという、非常に特別な小説だったのだなと改めて思った。2022年に読み返しても、やっぱ全然おもしろい。「他者たち」というテーマがなおさら必要な世の中だとも思うし(と書いたところで、最新の文學界新人賞を受賞した年森瑛「N/A」のモチーフのひとつが「重要な他者」であると思い出した)。
一方で、「わたしとあなた」の行き止まりを書き切ることに惹かれる気持ちも、依然としてある。本稿では、魚住くんシリーズと比較してJUNEを担わせる形になってしまったが、嶋田双葉「冬服の姫」も、2022年に独立して語る価値のある小説だと思った。この作品は昨年「女と女」トークイベントを行ったときに、瀬戸夏子さんが選書リストに入れてくれていたものでもある。
嶋田双葉については、こちらのnoteでもたっぷり分析されている。
イベントでは私が読み込めていなかったり、時間がなかったりして語れなかったこともあったため、近日なんらかの形で補足ができないかなと思っています。ちょっとお待ちください。