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「政治的」であることーー「三島由紀夫VS東大全共闘〜50年目の真実〜」


2020年の春、映画「三島由紀夫VS東大全共闘 〜50年目の真実〜」の話ばかりしていた。

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1969年5月13日、学生運動の嵐ふきあれるさなかに、新左翼的思想の筆頭である東大全共闘のメンバーの一部が、三島由紀夫を招いて討論会を行った。その映像を主軸に、三島由紀夫の言葉と思想に迫り、そして全共闘運動の総括を試みる……という内容のドキュメンタリーだ。舞台は、東京大学駒場キャンパスで最も大きい900番教室、三島由紀夫は、1968年、私的民兵組織「楯の会」を結成し、右翼の極致として、学生たちからは目の敵にされていた。

 

私はあまり学生運動について詳しくなかった。その上、三島由紀夫の作品はある程度読み、ちょっとだけ彼に憧れて法学部に入ったくせに、晩年の思想を深掘りしていないニワカだった。この討論会をまとめた『美と共同体と東大闘争』という本があるのも知らなかった。本作は、配給がGAGAコミュニケーションズとかなり大手だったのもあり、私のような人間のための映画に違いないと期待し、前年末から公開を楽しみにしていた。

ナビゲーターは、舞台「豊穣の海」で主人公の松枝清顕を演じた東出昌大。ちょうどこの年の1月に彼の不倫報道が炸裂し、映画もどうなるんだ……と思っていたが、予定通り3月に公開された。私は公開翌日に劇場に足を運んだ。観ている間は東出氏のあれこれも吹き飛んでしまうくらい没頭できる、とても良いドキュメンタリーだった。映像も素晴らしかったが、所々で入る解説・注釈が的確で、学生運動初心者(?)にうってつけだった。座席はほぼ満席で、パンフレットも劇場によっては売り切れていたらしい。

観賞後、感想やレビューなどあれこれ見ていると、「右翼も左翼も大嫌い!という人にこそ見てほしい」というタイトルの対談記事が公開されていた。

finders.me

タイトルは監督・プロデューサーの発言ではないが、私が感じたのとはちょっと違うメッセージで、なるほどと思った。

というのも、本作には、「右翼も左翼もこんな芯が通ってたんだ!」みたいな感動があるわけではないのだ。討論会についての注釈を見ていくなかで、たしかに当時の学生運動や、三島の活動、それらを取り巻く空気を知ることはできるが、討論会の中身自体は「右翼と左翼が真剣に話し合った」とは言い難い。

彼らがかわすのは、存在の話であり、時間の話であり、空間の話であり、他者の話であり、関係性――自分がそのなかでどうありたいかの議論だ。これらはもちろん当時の左翼的思想・右翼的思想とも無縁なものではないが、決して核心ではないだろう。討論会の最中に「観念界のお遊びはやめろ」と野次がとんだのも当然に思えた。その野次は、映画のなかではあくまで「下等な野次」として捉えられるし、実際そうだったとは思うのだが、当事者の大多数が共有していたのは、むしろ野次の主の感性だろう。

だから――まあ「右翼も左翼も大嫌い!」という人も観たらいいと思うけれど、このドキュメンタリーでは、右翼とはなにか、左翼とはなにか、が解体されているわけではない。あくまで三島由紀夫という一人の文学者・活動家のとてつもない熱量・魅力と、彼を招いた新左翼的思想の学生活動家たちのなかに、それを受け止める気概のある者がいて、そこの間に、奇跡的に成り立った、ある誠実なコミュニケーションの一幕が描かれているに過ぎない。


過ぎない、と書いたが、そんな「誠実なコミュニケーション」は、近年本当に貴重なものだと思う。
コミュニケーションが誠実であるにはやはり「政治的」であることをおそれない精神が必要であり、まじりけなく「政治的」であるためには意見の違う他者へのリスペクトが欠かせない。そんなことが、映像の一秒一秒からひしひしと伝わってくるのが、「三島由紀夫VS東大全共闘」なのだった。

パンフレットに、解説役の一人として出演している内田樹の文章があった。映画でのコメントも、パンフレットの文章も非常に良かった。一部引用する。

スクリーン越しにこの映画からいやおうなく吹きつけてくるのは1969年の「時代の空気」である。「政治の季節」の空気である……(中略)……「政治の季節」の人々は次のように推論することになる。
1.自分のような人間はこの世に二人といない。
2.この世に自分が果たすべき仕事、自分以外の誰によっても代替しえないようなミッションがあるはずである。
3.自分がそのミッションを果たさなければ、世界はそれが「あるべき姿」とは違うものになる。

 

討論会においてまぎれもなく「政治的」だったのは、三島由紀夫と芥正彦の二人だった。この二人は自分の今やっていること・これからやるべきことをしっかりと把握し、言葉にしていた。一瞬すれ違いを感じるやりとりもあったけれど、「自分の言いたいことを伝える」ことにずっと真摯だった。芥の側は、それ以外の目的のために相手の揚げ足をとることはなかったし、三島の側は、相手の質問がどんなに抽象的であろうと、しっかり手に握りしめたうえで、言葉を紡ぎ出していた。

三島は自衛隊員たちを説得できずに自決した。芥が参加していた全共闘も、勝利も敗北もすることなく拡散していった(詳しい人から聞いたところ、この討論会を主宰した全共闘メンバーは、決して主流派ではなかったらしい)。作中、現在の芥は、討論会を振り返って「言葉が意味をなした最後の時代」と評するが、彼らの言葉は、決して、当時の社会情勢を決定的に変えるような「意味」をなしたわけではなかった。

しかし、それでも私は三島に惹かれるし、芥のことも好きになった。実効性のある実用的な「政治」「活動」ももちろん大事だが、最初からそこを目指すのは難しく、挫折しやすい。実を結ばずとも「政治的な」態度であろうと努め、振る舞い、それをもとに創作・発信することも世界に必要だ、と励ましてくれた。たとえ、それが直接的なものでなくとも。

本作が現代の鑑賞者たちに絶賛されているのは、討論の現実世界での意義というよりも、私のように、表現者二人(芥は前衛劇団を主宰している)のキャラクター性と、とてつもない自己効力感に惹かれたからではないだろうか。ミーハーな話に聞こえるかもしれないが、彼らの魅力は、「政治的」であることとイコールだ。自身に唯一無二の価値があるととらえることは、「政治」の始まりなのだから。非政治的である限り、人間は個人として成り立ってもいない。


政治的な態度で発信を続け、その足跡を――討論会なり演劇なり文学なりもっと曖昧な形なり――残していくことは、ゆるやかに侵食するタイプの革命だ。このドキュメンタリーも、一見大衆に親しみやすくキャッチーな皮を被っているが、革命の一環だったのだと思う。芥の言う「意味」は、50年かけて、ひっそり持続していた。

では、これを観た私たちができる「革命」とはなにか。それはきっと、世界の姿と、自分が一人の人間として立つことは、決して無縁ではないと理解するところから始まる。討論会で、「文学は既成観念の破壊である」と三島が改めて強調していたが、近年のソーシャルメディアでのデモというのも、ある種の既成観念の破壊に寄与していると思う。功罪がものすごく大きく、むしろ既成観念を増長する方向に動いてしまうこともあるので、簡単には断言できないけれど。ソーシャルメディアは、人間が個人であることを後押しもするし、人間を集団に没させてその言葉から意味を奪いもする、振り子のようなシステムだ。

まあ、そんなに堅苦しく考えずとも面白い映画ではある。個人的には、「桐島、部活やめるってよ」的な萌えコンテンツともとれた(ナビゲーターが出演しているからもあるが……)。現在AmazonPrimeVideoで配信中なので、夏休みに観てみてはいかがだろうか。

 

※2020年鑑賞当時にnoteで書いたものを、加筆修正しました。