マンガParkの全巻無料キャンペーンに踊らされ、朝も晩もおうちで白泉社作品を読み続けている。
『動物のお医者さん』も『天使禁猟区』も無料期間中に読み終わらなかったけれど、10代の「花とゆめ」「LaLa」へのパッションが再燃してしまい、深夜に「あのマンガは?あのマンガは!?」と延々当時の白泉社作品を挙げ続けるという所業までした。
あとやっぱ「花君」「フルバ」「カレカノ」の後にやってきたのが「桜蘭高校ホスト部」だったの、もうそれ自体事件だったんだよな、リアタイ読者的には… pic.twitter.com/QNlVakpAj6
— ひらりさ (@sarirahira) 2020年5月5日
基本的には過去に読んだ作品を読み返していたのだけれど、「マンガPark」トップで取り上げられていたのでふと気になって初めて読んだら、ひじょ〜〜〜にハマってしまい、この日月で文庫版5冊のKindleを読み切ってしまった作品がある。それが麻生みこと「天然素材でいこう。」だ。
麻生みこと先生といえば、ドラマ化された法廷ものマンガ『そこをなんとか。』が一番有名な気がする。私もとても楽しく読んだのだが、どちらかというと「仕事もの」としてとらえていたのもあり、その他の「恋愛もの」らしい既刊に手を出そうという発想がなかった。しかしマンガParkで1話を読んでみたら、あら驚き、あまりにも面白いし、この作品が連載されていた10代のときにリアルタイムで読んでも、この面白さは理解できなかったかもしれないなあ、今でよかった……とも思った。
話の概要は、本当にシンプルに、ラブコメだ。
いたって平凡そのものだが、超マイペースな天然キャラであるためか、学年のアイドル的美少女、理々子・美晴の2人に慕われ、つるんでいる女子高生・二美(ふたみ)。美少女二人を「異次元だなあ……」と傍観していた二美だが、その二人が恋心を寄せる学年のカリスマ的男子・高雄(たかお)が兄と同じバスケ部だったために、なぜか高雄にも心を許されてしまい、毎日ごはんを食べる仲に。なんとか友人二人と高雄の仲を取り持とうとする二美だが、二美の飾らない人柄と、いつか映画翻訳者になりたいという彼女のぶれなさに触れた高雄は、二美をどんどん好きになってしまう。結局、二美も高雄に惹かれ、二人は付き合うことに。しかし、いたって自然体な二美と、彼女の真水のようなナチュラルさを愛した高雄は、「恋愛」的に距離を縮めることがうまくできない。そこに、高雄よりずっと前から二美に恋していたチャラ男・三千院、子供時代から自慢の従兄弟・高雄にべったりなおてんば娘・千津もくわわり、二人をめぐる人間関係はどんどん混線していく。
という感じ。
平凡な女主人公と学校のカリスマ男子が恋に落ちて……というのは、きわめて少女漫画的なのだが、このマンガがすごいなあと思うのは、「1話で二人をくっつけてしまって、そこから『恋愛とはなにか』『好きとはなにか』について、あの手この手で二人に考えさせていく」のを90年代の時点でやっていることだ。
この人は「オンリーワンだ」「一緒にいたいな」ということに、二美と高雄の二人はすぐに気づくのだけれど、では、自分が惹かれた相手の「オンリーワン」さを損ねずに「恋愛する」「一緒にいる」とはどういうことなのかーーそもそも相手がそのままでオンリーワンであるならそれで十分じゃないのか?自分ができることって何なのか?ということを、二人は徹底的に(作者と周囲の登場人物によって)手を変え品を変え考えさせられるのである。
恋愛というのは「他者に干渉/侵害する」行為である、ことを出発点に、相手のそのままを大切したいときに、それでも「干渉/侵害したい」この気持ちは何なのか? 相手の趣味に全く詳しくなくても、同じ舞台を見て全然違う感想を抱いても、一緒にいたいこの気持ちをどうすればいいのか? 二美と高雄は折々それぞれに考えて、立ち止まって、ときにはお互いの恋敵や横恋慕相手に翻弄されて、その恋敵や横恋慕相手が個別に持っている「オンリーワン」さを実感したうえで、それでもやっぱり二美・高雄と一番一緒にいたいのだ、と確認し続けるのである。
恋愛は、人類の中でもかなり参加者の多い趣味なので、いろいろな宗派があるジャンルであり、少女漫画の中での描かれ方も無限に存在している。
相手の内面・外面への関心、ときめき、性的欲求そのもの、をたくみに描くことで「理想のカップル」に読者を萌えさせる作品もあれば、今、二人の間の障壁を高く設定し、ヒロインはヒーローを獲得できるか/できないか、ヒーローがヒロインをどう思っているか/思っていないかの駆け引き、を見せつけることで、「これが恋愛の醍醐味でしょ?」と読者を翻弄する作品もある。あるいは、ヒーローが抱える心の傷や過去をヒロインだけが癒やすことができたという過程を綴って、「これが真の愛だよね」と語りかけ、読者の心の穴をも埋める作品もあるだろう。
私もそのようにさまざまな流派の、しかし、読者のアドレナリンをあの手この手で誘発してくれる少女漫画を読んできたから、この歳になっても「NYCのジェヒョンと道端で知りあいてえ〜」くらいのしょうもない想像を毎日するし(毎日は言いすぎかも知れないが……)、20代には「帰り道に頭ポンポンしてきたの何なの!?距離近いけど好きなのかどうなのかはっきりしてくれ!でもこのはっきりしないのが楽しいという気持ちもあるはある」みたいなことで数日あーだこーだ友人にしゃべりまくってそれだけで満足するということもあった(流石に最近はもうないです)。
いろいろバリエーションをあげてみたけれど、やはり基本的に恋愛漫画というのは「想いの成就」「障壁の排除」をゴールとしており、「ゴール」に向かって物事が進むかぎり、それは常に吊り橋効果的アドレナリンに大きくフォーカスしたものになっている部分が否めないように思う。
それはそれで本当に心底めちゃくちゃ面白いし、それだけでないエンターテイメントや人生の本質もいっぱい散りばめて描かれているので、そうした作品を今読んでもめちゃくちゃ楽しいし、大好きだし、私の人生に不可欠と言い切れる。言い切れるのだけれどーーだからこそ、「天然素材でいこう。」で、その「ゴール」の本質が徹底的に解体されているのを読んで、とても気持ちよくなってしまった自分もいた。
ゴールに夢を見ていないのに、その「ゴール」の不断の確認こそが「恋愛」なのだという、ある意味では絶望的なまでに凡庸で、でも愛おしい現実を突きつけてくるのだ。それは一見非ドラマティックなのだけれど、のぞいてみると小さなドラマに彩られた、とても切ないものでもある。
「恋愛しなくても、一人でも、あるいは他の人とでも、人生は十分に楽しいし、私はあなたにとって一人だけのオンリーワンではないし、あなたを決定的に変える存在でもないんだけど、でもそれでも、あなたといたいし、一緒にいられなくてもあなたを好きだ」
そんなものを10代に読んでも、きっと理解はできなかっただろうなと感じるから、私は今「天然素材でいこう。」を読めてよかったなあと思う。
二美ちゃんになりたいよ〜、ともだえながら、もう一回読み返そうと思います。