It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

『白い薔薇の淵まで』(中山可穂)

いつでもどこか遠くへ行きたい、ここではないどこかへ。それなのに、行く術も行くだけの覚悟もなく、どこに行き着けばいいかもわかっていない。

10代の頃そんなふうに思っていたのはーーそして20代、30代になってもその気持ちを抱えているのもーーきっと私だけではないだろう。そんな気持ちに寄り添ってくれる作家が、中山可穂だ。20年ぶりに復刊された『白い薔薇の淵まで』を読んで、改めて感じた。

白い薔薇の淵まで (河出文庫)

 

集英社から単行本が出たのが2001年。本当に20年ぴったりの復刊だ。

私が読んだのは2005年だったはずだ。当時刊行されていた読書雑誌「かつくら」で紹介されていたデビュー作『猫背の王子』をまず読んだ。表紙には、鋭利なナイフを硬く握り締めた、鋭利なナイフのような裸身の女が印刷されており、どきどきしながら本をめくると、一文目で深く心をえぐられた。

 

 

自分とセックスしている夢を見て、目が覚めた。

どのページにも、すでに失われたもの、これから失われるものがあることを暗示させる痛々しさがみなぎっていた。

王寺ミチルシリーズ2冊目の『天使の骨』を読み、『深爪』『感情教育』『マラケシュ心中』『花伽藍』など既刊を追った。そのうちに上下巻の『ケッヘル』が刊行され、こちらも夢中で読んだ。『猫背の王子』のことはあまりにも愛しすぎて、友人とのヨーロッパ旅行で、表紙に使われた写真のアーティストであるJan Saudekのギャラリーまで行ったくらいだ(元を辿ると、当時私がヨーロッパに憧れて旅先に選んだのも、よく考えたら中山作品の影響だという気がしないでもないが)。

 

www.saudek.com

 

近作である宝塚シリーズは、周囲の同世代でも話題にしている人が多く、勝手ながら嬉しく思っていた。それでも若い頃の自分の自意識を救ってくれていたのは初期作品にあった、張り詰めた脆さだった。だから『白い薔薇の淵まで』の復刊を知って、本当に本当に楽しみにしていた。

最愛ツートップである「卒塔婆小町」(『弱法師』収録)と『猫背の王子』は都度読み返していたのだが、『白い薔薇の淵まで』を読むのは久しぶりだった。20年経っても変わらず、土砂降りの大雨のようにこちらを揺さぶってくる恋愛小説で、何にも色あせていなかった。傘を持っていたつもりだったのに、ずぶ濡れのまま立ち尽くしているような読後感だ。

話の骨子は、至ってシンプルだ。恋人もいる平凡なOL・とく子(クーチ)が、深夜の書店で破天荒な新人女性作家・山野辺塁と出会い、激しい恋に落ちる。傷つけて傷つけられ、周囲を巻き込み、何度も修羅場を繰り返しながら、二人が行き着く先を描いている。


過去の自分にとって、なぜ『白い薔薇の淵まで』が「一番」ではなかったのかを考えた時に、視点の問題があったかもしれないと今回気づいた。『猫背の王子』も「卒塔婆小町」も、基本的には振り回す側の人間の視点で展開される。王寺ミチルも、老婆も、周囲を魅了する魔性の持ち主だが、自分を愛してくれる相手に一定の情愛を抱きながらも、相手が望む形では受け取ることができずに「逃げる」側だった。彼女たちはかなりずるい人間なのだけれど、彼女たちは彼女たちなりに必死なのが視点を通じて開陳されているため、どうしても感情移入し、好きにならざるを得なかった。

それに対して、『白い薔薇の淵まで』は、塁に振り回されるクーチの視点で進む。正直、10代で読んだ当時は、塁のあまりの不安定さと、それに食らいつきつつ塁を傷つけもするクーチのことが、あまり理解できなかったのだと思う。

 

「あんたそんなに死にたいの? わたしをひとりにしてもいいの? そんなにひとりで充足しているわけ? それなのに何のために抱くのよ? あんたなんか野良猫と同じなんだからさ、死ぬときは姿を消して、わたしの目の届かないところで勝手に死んでちょうだい。あの猫いつのまにかいなくなったけれど、どうしているだろうって、ずっと思わせ続けるだけの誇りくらいもってよね」

 

「書きたいから、ひとりにしてよ」

「そんなにわたしのことが邪魔なの?」

「いたら書けないよ」

「いなくても書けないんでしょ。だったらやめなさいよ。あんた才能なんかないのよ」

塁の目が残酷に光るのをわたしは見逃さなかった。

「今、何て言った? 能なしだって?」

 

「犬も食わない」としか言えない場面の連続で、読めば読むほどこちらの心もずたずたになる。クーチが、一般社会、つまり「才能」では物事が動かない世界の住人であり、彼女の恋人や家族との関係を通じて、そちらの世界が描写されるのも、その威力に拍車をかけていた。

先であげた2作では愛し憎み合う同士の間に「才能」というファクターが大きく関わり、片方が片方の「才能」「能力」を認める以外の愛を返さないために歪みが生じる。それは、両者が一応は価値観の重なる世界に暮らしていることも意味している。

しかし本作では、クーチと塁は別の世界に暮らしている。クーチは小説を読む人間で、塁と出会ったのは塁の著作がきっかけではあるものの、塁の才能に惚れているのではない。塁の才能や欠落を本当には分かっていないこと、そのために塁のことを実質的には救えないことに傷つき、塁の才能をわかる人間ーー5年前の締め切りをいまだ果たさない塁をち続けている男性編集者・古巻や、一読者として塁の作品を読んでいた友人の由美ーーに密かに嫉妬している。そうした嫉妬が、時に修羅場の原因になる。二人の情愛に圧倒されつつも、クーチのことを、塁に転落させられた側だと感じていたかもしれない。

しかし読み返すと、その印象がかなり一面的であったことに気づいた。桁外れに孤独で破天荒な塁に見出されたことでクーチの人生が大きく変わってしまったのは間違いない。それでも今回は、クーチの中にも、塁と出会う前から深淵があって、行き着くところまで行き着くだけのエネルギーを溜め込んでいたのだ、と読めた。そして、才能を媒介していないからこそ、二人の愛の純度はどこまでも高まっていったのだということも。

 

わたしは脳髄の裏側に白い薔薇を植えたことがある。

花を咲かせたのは数えるほどしかない。

 

あとがきで、筆者は「現在の自分は、全身恋愛小説家の肩書は返上しなければならないだろう」と語っている。それを聞くと尚更、『白い薔薇の淵まで』などの初期作品が、渾身の執念で「恋愛」と向き合っていたことが伝わってくる。でも、その「恋愛」は、ただ性愛でも、二者間のコミュニケーションにとどまるものでもない。「行き着けるところまで行く」ことが描かれているからこそ、私は心惹かれて読んでいたのだと思う。

本当に、気が狂うほどに美しい小説だ。