It all depends on the liver.

飲みすぎないように文章を書く

痛みは反復されて、痕になるーーソフィ・カル「限局性激痛」展

ずっと東京に住んでいるわりに品川駅で降りる機会がほとんどない人生を送ってきたのだが、新年早々、そのあまり縁のない場所に行く必要ができた。

 

原美術館で1月5日よりスタートした、ソフィ・カル「限局性激痛」展をみるためである。

 

bijutsutecho.com

 

ここ数年は意識的に美術館を訪れるようにしているが、別に美術の素養があるわけではないので、ソフィ・カルの名前を知ったのは、この展覧会の報がきっかけだった。だから、「ふーん」とそのままスルーしてしまう可能性もあったのだけど、とくにセンスを信頼している知人が記事をRTしていたのと、身体の狭い範囲を襲う鋭い痛みや苦しみを意味する医学用語である「限局性激痛」という言葉(一周まわって「いかにも」感もあるが)と、女性が微笑んでいる写真に押された謎の赤いスタンプが妙に印象的で、しかも失恋体験を作品にしたものだと知って、俄然足を運んでみる気になった。

 

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かつてーーというか3年ほど前、私も失恋をめぐる狼狽行動によって周囲にはちゃめちゃに迷惑をかけたことがあり、そのときにいろいろ「別れのコンテンツ」を摂取していたので(わかりやすい例でいうと、よしもとばなな『デッドエンドの思い出』とか)、そこで表現されるものに、非常に興味があったのだ。「一体これまでに見たことがないどんなやり方で、失恋が表現されているのだろう」(そんなことがありえるのか?)という、やや猜疑に近い気持ちもあったかもしれない。

 

結果として、わたしはソフィ・カルにすっかりメロメロになってしまい、今回の展覧会のカタログだけでなく、関連書籍をばかすかと買い、ミュージアム・ショップで12,000円もの散財をしてしまった。

 

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一冊4000円くらいするので3冊買っただけで12000円くらいになった

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でも、小口含めて、デザインが超かわいい


最初に紹介した美術手帖の記事にも書かれているが、「限局性激痛」の展示は、2部構成だ。第一部では、ソフィが当時つきあっていた恋人から振られるきっかけになった、日本留学の旅の92日間が、ポラロイドや手紙と、それに付随したテキストで示されている。額に入れられたポラロイド・メモ・手紙は、純粋にその時々の旅の経過であったり、ここにいない恋人への甘い独り言だったりして、それ自体からはまったく「失恋」は透けていない。しかし、すべてに「92 DAYS TO UNHAPPINESS」「91 DAYS TO UNHAPPINESS」という赤いスタンプが押されており、否応無しのカウントダウンが暗示されている。最初は目の前の一つ一つの額縁とテキストに向き合っている鑑賞者も、日を追って見えてくるソフィの気性や、途中で出現する恋人からの手紙によって、次第に「0日目」を意識させられ、いったい何が起こるのだろうと、固唾を飲んで歩を進めるような立て付けになっている。

 

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カタログだと、フランス語で「DOULEUR(痛み)」とスタンプが押されてますね

 

あまりにも唐突な幕切れを迎える第一部は、それだけでも十分に物語として成り立っているのだけど、展示はこれで終わらない。2階に上がると、そこにはソフィが「0日目」を迎えたニューデリーのインペリアル・ホテル261号室が再現されていて、そこから第二部ーー人生で初めてのあまりにも耐えがたい痛みをソフィが日々反復していくさまと、それと同時にソフィが収集した、他人の耐え難い痛みの話とが、交互におりなされるーーがはじまるのだ。

 

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左がソフィの反復パート、右が他人の不幸パート。

 

原美術館はそこまでおおきな美術館ではなく、ソフィ・カルの展示も、分量が膨大というわけではないのだが、写真以上に、テキストが重要な役割を果たしている展示であり、しかもその一つ一つが(第二部の反復では、それぞれにわずかな差分しかないにもかかわらず)非常におもしろかったので、ついついじっくり読み込んでしまい、見終わるころには1時間半ほど経っていた。ほんとうに濃密で、いつのまにかソフィの頭のなかーー心のなかかもしれないけれどーーにある大きな虚(うろ)のなかに、閉じ込められてしまったような気がした。

ソフィ・カルは特別に魅力的で特別に独創的な人だけれど、失恋を通じたソフィの痛みは(本当に一切が実際に起きた出来事なのかはあやしいものではあるが)、まったくありふれていて、非常に陳腐で、これまでに誰しもが、何度も見たり経験したりしたことのあるものだった。失恋を「こんな痛みは今まで感じたことがない」と考えることも、つらくて耐えきれなくて誰かに何度も話すということも、きっとかなり多くの人にとってなじみのある出来事だろう。

しかしソフィ・カルがやはり特別に魅力的で独創的だと思うのは、その、本人にとって「固有」な体験が時間とともにあいまいになっていくさまを、誰よりも徹底的に、ほんとうに完膚なきまでに徹底的に「反復」させてみることで、痕跡としてのこし、鑑賞者ひとりひとりの痕跡と共鳴する装置のような展示をつくりあげてしまったところだ。ここまでやられたら誰だってかなわない。純粋に、すごい試みだなあと思った。言ってみれば、壮大なリストカットではあるのだけど。いっしょに行った友達が「現代アートって、じつは敬遠していたんだけど、今日のは『わかった』し、よかった」と言っていたのも、うれしかった。もちろん安易にはわからせてくれないアートもおもしろいけれど、やりたいことが明確で具体的で、でも古びないほどに普遍的で、そこも良かった。


あと、ほんとうに文章がうつくしい。言葉選びがあざやか。原文で読むとさらに素敵なのだろうか。日本語しか読めませんが……。思わず会場でメモってしまったくだりを一部引用しておく。

 

エレガントで、でも気取っているわけじゃなく、何気ないけれどシックで、わたしを引き立たせ、あなたがいなくてどれだか寂しい思いをしたか分かってもらえて、でもあなたがどうしてもいなければならないというほどでもなく、それどころかあなたと遠く離れていたわたしが美しく、成熟したことを見せつける服。わたしにまた会えてあなたが幸せだと感じられるような服、そして、そうよ、私が戻ってきて、結局良かったと思わせる服…。第一印象が決め手だから。

 

とはいえ、彼女のバランスは、なかなかに乱暴なものでもあるのは事実である。第二部では、「反復」の合間に、彼女が聞いたという他人の「最も耐え難かった痛み」の体験が挿入されているわけだが、これが「自分より不幸な人の体験を聞いて、自分はまだマシだと思う」というある種のリストカットマウンティングに、ギリギリならずに済んでいるのは、緻密な計算というよりもものすごい荒業なのかなという気がしないでもない。

展覧会から帰ってきて読んだ、2016年に「限局性激痛」展の後半だけを見た人のエントリが、そのへんを非常にわかりやすく書いていた。

 

yzgz.hatenablog.com

 

それにしてもとにかくソフィ・カルが好きになってしまったので、あと1〜2回は足を運びたいなと思っている。みなさんもぜひ行ってください。3月までやってるよ。